放つもの発するもの

私をよく知る人達には笑われてしまうかもしれないが、私はいつも根底に品を持つことを理想としている。「品性に欠ける行為」、「品がある仕種」、色んな言い回しがあるが何しろ形が無いものなので「品性」の定義づけは難しい。けれども最近あまりにもこのテーマについて考えさせられる出来事を経験したので記録しておこうと思う。

知り合いに同年代のとある男子がいる。就職活動で言及されても不利になることのない学歴と、広い分野にわたる莫大な知識、それから恋愛関係にある存在を持っている。私は単純にすごいと思うし、私が持つそれらと比べてはいけない大きなものを持つ人だと思う。

しかしその人と対峙して何かしようとする度に、私は頭を抱えるぐらいに品性とは何かについて考えこんでしまうのであった。

そんな男子を含めた何人かと先日旅行に出かけた。学校の休暇を利用した四泊五日の旅行で、隣国ドイツへ電車で向かった。そこで彼に対する感情、それから「品性」とは何か、という問いへの答えがある程度形になった。

 

平たい言葉で私の目線から見た彼を説明すると、

彼は目立ちたがり屋の自信家で自分が持つ知識のアウトプットの加減ができない小心者である。

とてつもない暴言をこのような文として残すのは今回のテーマ「品性」に欠けた行いであるとは知りながら、あえてこう書かせてもらう。何故なら、私は彼との五日間で酷く精神を削られ、彼に付き合うという非常に愚かな決断を下した過去の自分を戒め、こんな人間には絶対に屈したくないと固く誓ったためである。本当はもう少し冷静になってから言葉を選ぶ必要があるのだろうが、鉄は熱いうちに打った方がいいので(???)熱いうちにこの誓いをキーボードで打ち込んでおく。ここからしばらく私の理想と現実が衝突を起こして交通事故を起こした様子が書かれるので興味がない人は適当に読み飛ばすなどして対処してほしい。

 

 

まったく、思い出したくもないが、 彼との旅行は、正直に言って非常に耐えがたいものだった。

 

私は頭が良い人が好きだ。
頭が良い人というのは、自分が持つ世界を、相手に合わせて形や渡し方を変化させて共有する、という非常に難しいことをやってのける人のことを指す。決して、知識量だけが膨れ上がった頭でっかちな人間を指すのではない。
彼はそれをはき違えている節があるとは感じていたが、まさかここまで恐ろしい威力を発揮されることになるとは予期していなかったため旅行を終えた今でもびっくり仰天している。自分の知識量を過信して、提示されたテーマを脳内の検索バーに入力してヒットした全ての情報を口から得意げに垂れ流す人間と五日間も行動を共にすると気が狂いそうになる。一度全ての人に経験してもらいたい苦しみだ。これを経験すれば他人を思いやる気持ちが自然と身の内に発生するんじゃないかと思う。

 

 

私は歌が好きだ。

歌は歌う人、更にそれを耳にする人の心を癒し、勇気づけ、様々な情景を浮かばせる魔法みたいなものだ。心がこもった歌は人をつなぐと私は心から信じている。

自慢げに大声でところかまわず発される音は歌とは言わない。騒音である。音響学の授業で学んだ面白い話に、「音を騒音にし得る条件には、その音を発する人間が、聞く者にとってどのような存在であるかが関わる。」というものがある。まったくその通りである。自分にとって肯定し得る音が他人にとって同じように美しいものかは全く別の話である。好みでもないジャンルの曲を好き勝手共同で使っている空間で流されて、更に好みでもない声質で好ましくない音量で騒音を口から吹き零し続ける人間は、非常に見苦しい。いや、聞き苦しい。そこに時々入る手足で生み出されるけたたましいリズムを合わせると、まるで動物や虫のオスがメスに対して自分を魅力的に見せるために命を削って発する人間には伝わらない鳴き声のようで、畳みかけるように私の癇に障り、イヤホンという文明の利器の力をもってしてでも私に大きなダメージをもたらした。

 

私は強い人が好きだ。

自分の弱みを自覚し、その上で強くあろうと足掻き続ける姿を馬鹿にする権利は誰にもない。自分の無知さ、非力さ、未熟さと向き合い続けること自体が人を強くする。

無知さ、非力さ、未熟さを必死で隠そうと出来合いの強がりで相手を威嚇する人間を、私は強いと思わない。慣れない土地で慣れないことをするには勇気を必要とする。それでも人間は新しい世界に歩き出さなくてはいけないのだ。不安なら不安と、わからないならわからないと口にする方がよっぽどかっこいい。そこから言動を選べばいいのに、知ったかぶったり態度を濁したり無言で人を使おうと無理やり動くことに意味などないと気づかずにここまでのうのうと生きてきた彼を孤独な小心者と称さずになんとすればいいのだろう。

 

幸か不幸か、私達は揉め事を起こしても意味がないことを知っているだけ頭が良かった。決定的な何かが起こらないままに心地悪い空気間の中、私にとっての彼の印象は徐々に悪化していった。彼と友人と別れ、寮に戻る頃には様々な種類の疲労が私の心身を蝕んでいた。部屋に入って五日ぶりに会うルームメイトが、私に何かを見せつけるでもなく自分が好きなことをのびのび自然にしている様子を見ただけで彼への感情は生理的な嫌悪に変わった。出会った初めの頃は面白そうな人だと思っていただけにとてつもなく残念なことではあるのだがそうも言っていられない。これからも何度か顔を合わせざるを得ない彼との関係構築の仕方を今一度見直すことが必要とされたのだ。

 

 

さて、今の私ができる限りの力でかみ砕いた、品性とは?に対する答えは、

「自分が放つもの全てに責任を持つこと」である。

自分から発せられるものを調整することで品性は生まれる。

言葉、歌、音、オーラ、上記の例から知ることができるものの他にも、私達は体から自覚できないぐらいに様々なものを発する。そしてそれに影響され合って世の中出来上がっている。それに気付けてはいても、だから何だ、と深く考えない人は少なくない。しかしそのエネルギーの手綱を握るのは自分しかいないのだ。品とは人と自分を通じ合わせる上で欠かせない要素の一つなのだ。

 

結果的に、彼との五日間は私が目指す理想像を思い出させてくれる良い機会を作ってくれた。この五日間を決して無駄にしない。

時間がかかっても無知で無力で未熟な私は聡く、強くなろう。歌でも文でも写真でも、何でもいい。自分が発する全てに責任を持つ人間になろう。その結果新しく見ることが叶った世界でマイペースに、幸せに生きられたらいいなぁ、と思う。