紡ぎ

今更過ぎる話、こちらに来たばかりに通っていた学期前のドイツ語クラスの最終試験だが、もう本当にダメかと思っていたのに見事ギリギリ合格していた。本当に世界はどうかしていると常々思う。

試験ではドイツ語の長文読解、リスニング、語彙と文法の穴埋め、テーマに沿った作文が課題に出された。解きながらはるか昔に何度も解いた高校受験用の英語の過去問のことを思い出した。所謂帰国子女の私にとって塾で出される英語の過去問は本当に鬱陶しいものだった。リスニングでメモを取らなくてもいいと判断して手を動かしていなかったところを講師に運悪く見つかり説教を受けたこともあった。……メモなんかしなくともこんなのできる。そう思って採点した。いつも通り満点だった。講師を見返したような気分にはなったがそれ以降その人とはまともに目を合わせて話ができなくなった。母に言って英語の授業はその年の後半から受けないことになった。

あの頃はあんなに簡単だと思っていた英語、得意で好きな物だと思っていた英語。そこから何年かたって、自分の未熟さを思い知らされている。日本にいることで私の英語に対する構えが気付かぬうちに歪んでいた。私はネイティブのように英語を流暢に話すことはできないし、長文を書くこともできない。気になった洋楽の歌詞の意味を一人で読み解くこともできないし、課題で提供されたもの以外の洋書を読み切ったことも実は今までで一度もない。英語の講義を綺麗に聞き取ることも困難なおかげで、今現在私はすべての授業において気を抜くことができない。

英語に出会ったのは二歳の頃。それでもこの言語はまだ私の中で芽を出し始めたばかりだ。

 

ドイツ語。ミュージカルを通して出会った言語。そのミュージカルをたどってドイツ語を学び始めて、生きたドイツ語が使われる国に渡ってきたことの不思議さ。ふと我に返ると面白いことになったもんだと思う。まだ極められていない言語を抱えながら新しい言語を知ろうとする。

「私の英語が小学生のレベルならドイツ語は幼稚園のレベルだ。」

ここにきてばかりの時に常にこう考えて落ち込んでいた。

 

話し言葉にしろ書き言葉にしろ、他のどんな言語に負けず劣らず日本語は個性が強い。漢字が中国からの輸入品なのは国民の大半が知っていることかもしれないが、輸入の手段をなくした日本人がそれを元に三つも文字の種類を増やすなんて誰も予想していなかっただろう。おかげさまで日本の子供たちは国語に大量の時間を割く羽目になり、その引き換えに実に豊かな表現方法を手に入れたのだけれど。日本語の発音というのはこの大陸特産品らしいけれど未だに詳しくはどこ由来なのか定かじゃないと来た。これが言い訳になるわけじゃない、でも他の言語はそのまた他の言語と歴史的な繋がりが存在してて、その一方で個性的すぎる日本語と「今現在生きている部分」でつながりのある言語というのはそうそうない。それが日本人をとにかく苦しめている。言語と言ったって最初はただの音や記号なんだからその音や記号の形に自分の使っている言語に近いものを全く感じられないのだとしたら学び始めの私達は赤子のようなものだ。その結果、日本での外国語の普及率は先進国最悪と言っても過言ではない。

近年のグローバル化によって子供たちは早くて幼稚園から英語を学び始めるようになり、小学生まで遊びを含めた英会話として、中学生からは本格的な科目として大学まで勉強し続けることになる。英語一本に絞って時間を割いてもなお、一部の帰国子女や勉強熱心な人間を除いて、その教育を直に受けている若者でさえ外国人と満足に意思疎通できるほどの言語力を持っていないのが現状である。最近では成人した会社員でもビジネスで英語力が必要とされるがゆえに英会話教室や英語教本の需要が増えている。しかし多くの人間が一年二年でうまくいくわけもなく、非常に長い間苦しんでほんの少し使えるようになるぐらいである。

ドイツ語の授業で多言語というテーマで作文を書こうとしたところから始まったこの文章だが、日本は多言語を語れるほど他の言語は受け入れられておらず、国際言語の英語で手一杯である。一部の外国語大学を別として、一般的な大学では少ないながらドイツ語、フランス語学科を見るぐらいで、ドイツ語を専攻している私でも一年目は親戚を含む周りの人達に「そんな使えない言語を」と馬鹿にされた。

それでも幼稚園の頃アメリカに住んでいた経験から、幼い頃より英語を学び続けていた私は、異なる言語を学ぶことはその言語が話されている国の文化や価値観等、翻訳しきれない情報を知ることに繋がると知っているからこそ言語学をおろそかにしてはいけないと思っている。こんな大口を叩いておきながら、私は今現在英語とドイツ語のみしか勉強していない。それでもこの留学を通して、新しくできた大切な友人が話すイタリア語やチェコ語、文法が日本語と酷似しており人工的言語という個性を持つ韓国語等、様々な言語に興味を持つことができた。その他にも数えきれないほどの言語がこの世界に存在する。そしてこれらを学ぶことは決して無駄なんかじゃない。

同時に知った虚しさ。母語を含めて、どんな言語も極めきることなどできない。言語はそれが口にされる限り永遠に完結することのない形も制限もない文化だ。でも言語学習は完結させることがゴールなのか。そもそも完結なんてあってないようなものだ。ガンジーだって永遠を生きると思って勉強しなさい、と言っている。この世にはここまでできたらおしまい、なんて簡単なものはない、だからこそ知る意味があって、そんなことでへこたれている場合じゃないのだ、とモチベーションを失いそうになる自分や他の人に思いを飛ばしてみる。

 

高校の時、尊敬していた先輩と哲学的なことを話す会を短い間だったが不定期で開いていた。その会の名前がとても好きだ。

「言葉を『紡ぐ』会」

愚直なネーミングなのに繊細な言葉選び。こんなに複雑なくせに、日本語ってなんて美しいんだろう、と思わせてくれる名前だった。そういう美しさを知るために私はもう少し、あともう少し、と言語を学んでいくのだ。