帰国

三月に入ってからすぐの火曜日、同じ日本からの留学生友だちから留学先の大学が休校になったことを知らされた。暢気な私は突然の休みに少し浮かれて、その時一緒にいたタンデムパートナーにニュースについて話した。その人は長期休みになるなら活動自粛を求められるより先にウィーンにいる彼氏がこちらにきてくれたらいいな、なんて言っていた。そのころ日本はすでに不要不急の外出を控えるようにと警告が出されていたので私はゴーストタウン化した地元を想像してゾッとしていた。ここでも不要不急の外出が禁止される前に何ができるだろうかと考えていた。四月頭までの休み、四月入ってもすぐイースター休暇で二週間休みになる。単位のための留学でもなかった私は授業の心配もろくにせず、寮のベッドでダラダラ過ごせることに安心していた。

 

国際センターのメールを読み返して少し青くなったのはその何日か後、感染症危険情報レベルという外務省が出している指標でオーストリアのレベルが「1」に上がった時だった。大学との契約として、滞在先の国のレベルが2になった時は帰国の準備を始めることが求められる。不要不急の外出、特に大人数での外出は禁止され、警察が街を巡回することになった。二月の頭では一週間に何度か見るような頻度だった大使館からのメールはこの頃には毎日のように感染者の増加を知らせてくるようになっていた。ルームメイトは三か月前と同じようにベッドに寝そべってドラマを見てる。寮の住人はほとんどヨーロッパから来た人たちなので、淡々とした文面の裏に確かに存在する焦りと周りのどこか面倒くさそうな雰囲気の狭間、温度差で困惑した。ただ祈るしかなかった。日本の外務省が出している日本目線の指標が上がるかどうかで運命が決まる人がいるなんて、ここでも日本でも、誰も知らないようだった。国全体で早い段階から早めの対応をしているのだからもしかしたらここから感染者は減るかもしれない、と自分を勇気づけていた。

 

レベルが2に引き上げられたのはそこから一週間たつかたたないかという日だった。国境閉鎖を恐れて先に帰国した留学生仲間が「NHKのニュースで聞いたんだけど、オーストリア、レベル上がるって。」とメッセージを送ってきた。頭がぼうっとした。一人で寮のキッチンでご飯を食べていた。昼下がり。窓の外は晴れ。エメラルドの川が見えた。家族と電話した時に暢気に「そこにいた方がいいよ、いさせてもらえないの?」と訊かれるのが辛かった。私もおんなじことを考えているのに、帰らなければならなかったから。私含めて誰も私が帰る意味なんて分かっていないみたいだった。国際センターと何度かメールのやり取りをし、最後まで「日本に来ることはない」と言い張っていた父が直接国際センターと連絡を取り合い、本当に帰国しなければならないということが決まったのだった。突然棚に貼っていた写真を剥がし始めた私にルームメイトが「あんた何やってんの…?」と大声で尋ねてきた。私も何をやってるのかわからなかった。ただいずれにせよ決まってしまった、期限を決められてしまったことに対して本腰入れて何かするのも何もしないのもこの時の私にとっては気持ち悪かった。ルームメイトはその時初めてコロナの影響が身近に迫っていることを知り、静かにショックを受けていた。

 

大急ぎで飛行機の日程を変更し、ウィーンの空港までの電車を予約した。やることリスト、やりたいことリストを書き出して整理しながらそこから四日、五日過ごした。来たときは全て整えるのに何日もかかったのにやろうと思えばこの短期間で全てなかったことにできるのは当たり前のようで不思議だった。思い描いていた帰国の仕方、まだまだこれからも待ち受ける新しい人や町との出会い、在るべきだった自分、一周して気付く自国の新たな側面の発見、そういう全てはもう叶わなくなったのだと諦めてただ動き続けなければならなかった。そしてそれは確実に毎日、毎時間私の心身を侵食していた。日本の対策に関して日に日に愚痴が多くなる父に怒り、かける言葉が見つからなかったであろう友人に苛立ち、無事に決めていた期間を海外で過ごして無事に帰ってきた過去の留学生達を妬み、SNSで楽しそうに平気で外食した様子を投稿する知り合いを恨み、自分の星の巡りの悪さを呪った。日本に関するどんな情報も憎らしく思えた。「ここにいたい」から帰りたくなかったはずが日本という国に帰りたいと思える要素がなくなってきたのを理由に帰りたくないと感じてしまうのが悲しかった。ここにいた人々が家族や友人、自国を想う気持ちが強いことを知っているが故に、自分の中で「日本に帰ること」と「自分のルーツや安心する場所に帰る」ということが上手くイコールで結びつかないことにひどく戸惑った。

私はどこに帰るというのだろうか。

ぼんやりとした憎悪を押し込めて、いつの間にか最後の夜を終えていた。

 

乗る予定の電車が5:12発。私の寮からは身軽な格好で徒歩20分かかるのにもかかわらず、私は4:50に寮を出た。

息を切らして数ヵ月ぶりに全力疾走。
早朝暗がりの中、22kgの大きなスーツケースを必死に押し転がして私は今ではもうすっかり慣れた駅までの道を辿っていた。冷たい空気を乱暴に口で肺に送り続けていたせいで次第に鳩尾の右の方、あばらの角の辺りが強烈に痛み始めた。運動不足な体に不眠を重ねて負荷をかけて全力の移動をしていたのだから当たり前だった。何度かコンクリートの割れ目に躓いてスーツケースを倒した。それでもどうにか水を買う時間込みで間に合って乗客のいない電車に飛び乗った。モーニングコールしたにもかかわらず私からの返答がないことに心配していた家族からは安堵と呆れと怒りが混じったラインが来ていた。電車に揺られてあっという間に三年前は「憧れ」でしかなかったウィーンに到着して息をつく間もなく空港へ直行する。一か月前の比ではない人の少なさに動揺して手続きを済ませ、ゲートをくぐるとシャッターを下ろした免税店が寂しげに建ち並んでいる。搭乗の時間になると数少ない日本人、ざっと数えて十数人、が最終ゲートに集まってきた。帰国に否定的でイライラしていた、なんて言い訳かもしれないが、ここ半年見慣れたヨーロッパの人種と比べた日本人があからさまに辛気臭い顔と縮こまった姿勢をしていてうんざりした。今考えれば自分も同じようなものだったに違いない。この人数なので飛行機内もかつて見ないほどにガラガラ。飛行機内の席に座ると隣二席とも空席だったので横になることもできた。離陸の揺れは内臓が一瞬震えるような心地がするがそれもすぐ慣れてしまう。遠のいていくオーストリアは上から見ると私が知ってるどの側面とも異なったようなよくわからない形をしていた。この国で暮らして何を得られたんだろうか。今まで夜明け前深夜の便ばかりに乗っていたせいで見られなかった窓から見る雲の上の光景は美しかった。雲の上、どこまでも穏やかに青空が広がっていた。なんだか現実味がないその光景を見ながら、私は眠りについた。

「起こるはずだったものへの未練がましい期待とどう足掻いても戻れないという絶望を引きずるよりは絶え間なく変化していく果てしない未来と再び戦ったときに今度こそはましな結果を叩きつけられるように準備するべきなのだ、と気付いた。何がきっかけだったのかは最早よくわからない。」

ずっと朦朧としていた意識の中で自分が書いたらしいメモがスマホに残っていた。相変わらず詩的で笑えた。

 

空港の審査・検査は予想外にあっさりと終わり、公共交通機関を利用することができない私を迎えにくるはずの両親から慌てて家を出たと連絡がきた。がらがらの空港で空いたベンチを探すのは本当に簡単で、そのかどっこに座ると母から電話が来た。一時間半ほど待つことになった私を気遣って話し相手になろうとしてくれたのだと思う。ここ一週間で何度も電話していた母なので慣れたようにスーツケースに腕を預けて帰国までどうだったか、日本は今どんな様子かなんていう「このご時世」な話をしていた。ふと母が「残念だったね」と口にした。「最後までいられたら良かったのにね。」

その瞬間止めようとする間もなく涙がすごい勢いで溢れてきた。電話に戻ろうとしても息が上がってしまい、嗚咽が止まらなかったので無言で切るしかなかった。静かな朝の空港で私は終わりのない時間と共にぼろぼろ泣いていた。気に留める人もいなかったと思う。

 

 

後日、スーツケースに入りきらずに郵送した洋服に久々に袖を通すとあっちで愛用していた洗剤で洗ったはずなのに、知らない香りがした。

半年間が私の中でゆっくりと消えていくのを感じた。

 

久しぶりに開いたパソコンの時計はまだヨーロッパ時間だった。