守護魔法をほんの少し

守るという言葉が何故か好きだ。漢字でもひらがなでも、ただの音でも、その包み込む雰囲気が好きだ。

 

私の母の話をしたい。母は情があるのにどこか淡白な人で、馴れ合い譲り合い、こまめで露骨な愛情表現をしない。少し前までどこまでも一匹狼な母を尊敬しつつ、どこか母の人生に触れられていないような不思議な物足りなさを感じていた。親元を離れてみなければ分からないものがあるとはよくいったもので、文明の利器を通してのみのやり取りになって初めて、自分が気付かなかった様々なところに母が種をひそかに植えていてくれたのだと知った。

 

母が昔勧めてくれた漫画で『いつもポケットにショパン』という作品がある。

主人公・麻子の母は有名なピアニスト。麻子が幼い頃に麻子の父と離婚し、その後彼女を年齢にそぐわないやり方で厳しくしつけ、やがて麻子の祖母に彼女の世話を任せると放任主義の態勢をとるようになる。近所のピアノ教室に一緒に通う少年・きしんちゃんの心優しい母に憧れつつ、実の母とは溝を埋められずに日々を過ごす麻子。きしんちゃんとの別れの後、精神的に孤立していく麻子は音大に入りつつも次第にそこでピアノを学び続ける自分に価値を見出せなくなっていく。しかし天才ピアノ演奏者へと成長したきしんちゃんとの運命的な再会を果たしたことをきっかけに幼い頃の幻想に隠された現実を知ることになる。現実は冷たいが、ただ麻子を悲しませるだけの展開にはならない。先の予想をさせないままでスピード感をゆるめず淡々と進んでいくあたたかい物語と、美しくて豊かな筆のタッチが魅力的な作品だ。

その中で今でも時折思い出して思いを巡らせるシーンがある。

物語の終盤、自分の母を「自分の人生のルールを司る支配者」としてではなく、一人の人間として認識できるようになった麻子はふと思い立って母の公開ピアノ講習を覗きに行く。育ちの良さそうな自分と同じくらいの少女にピアノを教える母。自分だって教わったことないのになぁ、と麻子は心の中で母と自分の関係に冷たさ…ではなく滑稽さを感じて一人笑う。講習中の母がふいに発した「野菜のみじん切りみたいに」という指運びの比喩に講習を見ていた聴衆が揺れる。講習後、「でも先生、野菜のみじん切りなんて…娘の大事な指を危険にさらすことなんて私はさせていませんわ。」と生徒の母親が笑う。

そこで麻子の母は言うのだ。

「…麻子は、シチューが得意です。」

その得意げな微笑を見て、麻子は今まで自分と母との間にあった全ては不器用な母が自分のために広げたあたたかい手だったのだ、と気付くのだ。

 

私の母は有名なピアニストではない。厳しく私をしつけたわけでもない。私のことを他所で得意げに自慢している所なんて見たことないし、そもそも自慢しているのか、自慢に思っているのかも知らない。

それでも母が私を思って植えた種が、私の中で芽を出して始まったばかりの人生の中で意味を持ち始めている今、麻子のこの気づきの瞬間と重なってハッとさせられるのである。

 

 

反面、守られるだけの人間でいたくないと思ったのはいつからだったか。

 

つい先日も、私を気遣ってか、帰り際に自分の出る改札を過ぎてもついてこようとする人にやんわりとそのまま帰るよう促してしまった。「気を付けて」とかけられた声に、胸の内から濁った感情が湧き出て、そのまま見送ることもなく駅を出た。

 

異性同性関係なく、初対面の人・友人・家族関係なく。不思議な価値観で私を俯瞰で見ようとする人達の言葉はどうしてこんなに「へんてこ」に響いてくるのだろう。

 

パートナー関係の話が一番わかりやすいだろうか。

パートナーができることで知り合いが何かを相手に任せることにオープンになっていくのを見てきた。一人で背負い込みがちの友人達の荷物をうまい具合に拾い上げて助けようと手を伸ばすパートナーに心底関心しつつ、どこか違和感を抱いていたのも嘘じゃない。

でも何て言えばいいのだろう。例えば、男だからお金を払う、相手にサプライズを企画する、プライドを守らせてもらう。女だから甘える、夜遅くに送ってもらう、笑顔でいる。そういうよくわからない縛りで自分に価値を見出すのはむなしくないのだろうか。荷物を分け合って長く旅を続けるなら、この人がいいか、と思って相手を選ぶものじゃないのか。相手がいたことないのにそんなことばっかり考えてる。

私は「パートナーができること」=「単純に自らが庇護対象になる」ということじゃないと信じたい。

 

「そうすることで守られるべきものが守られるのだ」と何の根拠もなしに謳う言葉が苦手だ。「守るため」に言動を選ぶなんてあまりに受け身になってしまう。自分で一人で考えてみたけれど、やはり「作るため」の選択でしか事物は前進しないと思うのだ。

 

私は私の寂しさからこれを「へんてこ」と感じるのかもしれないとも思った。そして時間をかければかけるほど、これらは全部、より「へんてこ」な響きで私の周りを踊り続けるようになった。

 

「へんてこ」な言葉を許すことが可愛さなのかもしれない。この可愛らしさはもはや私にとって永遠に手に入れられない宝石のように尊いものなのかもしれないし、知らなくても生きていけるようなもの好きのための物なのかもしれない。真相は10年後に解ればいい方だな、と長い目で見ている。

 

 

守る、と言っては変かもしれないけれど、私がどうしても人に心を向けたいと思った時にやることがある。単純に、誕生日やお別れ前の贈り物を時間をかけて選ぶ。手紙だったら、時間をかけて書き連ねる言葉を選ぶ。

そうすることで、自分から発信された何か、生み出された何かが、届いた先のその人を幾重にも包んでいつか辛い目に遭った時でも守ってくれるようにと自分勝手に念を込めている。

もしかしたら私が先程まで「へんてこ」と呼んで散々訝しんでいた言葉の数々の方が直接的でわかりやすくて簡単なのかもしれない。そうだとしても、自分に合った方法を選ぶことが、こういった局面では何よりも大切なのではないか。

なんとなくそう感じて、いつかもっと良い方法を見つけるまではこのおまじないを信じ続けようと思っている。