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昔はお姫様になりたくて、その次は皆の正義のヒーローになりたくて、いつかは舞台で活躍する人間になりたくて、ベストセラー作家になりたくて、お顔が可愛い女の子になりたくて、歌う声も話す声もきれいな人になりたくて、好きな人の恋人に選ばれたくて、でも強くて気高い存在になりたかった。でもなれてない。理想は空より高くて、周りに比較対象がいればいるほど乖離に苦しんでる。でもそれでいいよ、私は。

 

この一年で

私の言葉が時をこえてその人が苦しかったときの支えになったって聞いた。

私のころころ変わる表情を見ていたいって言われた。

私のものの見方でもっと広い世界が知れたって喜んでもらえた。

私といると気を張らないでいられるんだ、って笑ってもらえた。

私が離れた場所で頑張ってることを知って、応援してるんだって伝えてもらった。

 

私も今日からまた

誰かの言葉に救われて、

誰かの表情に笑って泣いて、

誰かが分けてくれた知識で世界を知って、

誰かの傍で沈黙を楽しんで、

誰か遠くで頑張ってる人にこれからも念を送る。

そうやって、自分自身が心から納得できるまで歩き続ける。

2022.3.22の下書き

一年前、私は漠然と「自分には現代日本で生きていける力が無いんだな」と思っていた。これは経済力という現実的な部分もさることながら世間への理解度や自身が管理していかなくてはならない精神力という部分においてもそう感じていた。

毎年毎年感じるが、一年は長くて短い。一年という時間を誤って見積もることのなんと多いことか。反面、計画が苦手な私にとってこの誤差は、実は大体の場合救いになってくれる気がする。なんというか私の場合、遠回りした意味がようやく少し理解できるようになる最小の時間の単位が「一年」だったりする。

 

この一年のテーマは「置いてけぼり」の感覚と、それに尻を叩かれてようやく動き始めた私の中の時間だった。私の人生における大きな節目、イベントが続けて起こった年だったからかもしれない。同級生からは少し遅れて迎えた大学最後の年、就職活動、私のこれまでの学びと生きがいとなる活動の成果を公に示す媒体となった卒業論文の執筆と提出、そして免許証の取得………様々な面で後悔していることはそこそこ残っているが、最初からやり直す気にはとてもならない。自分がいっぱいいっぱいで乗り越えたものは大体そんなもんだろう。皆私を見習って自分にめいっぱい優しくあってほしい。

 

一番寂しく思ったのは仲が良かった友人やお世話になった人、家族が私の元を離れてしまったことだった。元々私の元にいたわけでもないのに私ときたらいつの間にやら皆ずっと一緒に生きていくのだと信じていたのだ。仕事で遠くへ行ってしまった友人もいれば、大志を抱いて故郷へ帰っていった美容師さんもいた。今となってはこの距離感が合っているのだと感じる妹も、去年の秋頃に通学に便利な場所に位置するアパートへとさっさか引っ越していってしまったことが記憶に新しい。そのどれもがとにかくさみしかった。○○見知りを幼い頃から何度も経験してきた私にとって自分の「HOME」の形が変わってしまうことは何より恐ろしかった。その中で自分だけが延々と変わらない時間の中でくすぶっている気がするのも辛かった。

そのさみしさや虚無感はこん棒となって私の尻を叩いた。ベタな話だが、変わらない絆に感謝するきっかけをくれた。必要な変化に押し流されて大切なものまでどこかに行ってしまわないように、これまでの私だったらくだらない意地を張って離していたであろう多方面から差し伸べられる手を、今年は思い切ってぎゅっと握っていた。その結果見ることができた景色は美しかった場合もあったしその反対に、見えていなかったために大いに期待していたものだったのだと気付いて気持ちよく手を離すことができた場合もあった。人も場所も自分のモノにはなってくれない、私自身が誰かのモノになれないように。

 

感情の断捨離というのだろうか。断捨離に対してあまり良いイメージが無かったが、特に前半期自身の感情に溺れて何度も死にかけていた私は初めて、感情は断捨離した方が自由に生きられるもんだな、と理解した。感受性が豊かで表現が愚直だと丁寧にオブラートに包んで言われたことがあるが、私のような人間は世界から受けるパワーをダメージだと理解して尚、それらを自分の中で量産して自分を傷つけてしまいがちなので、必要以上の感情を負わせすぎないように生きようと自分に誓うことにした。このご時世で表現のインプットもアウトプットも、する機会がめっきり減ったがそれはもしかしたら私にとって一種の救いになったのかもしれない。

 

理由をなんだかんだつけて長い間距離をおいていた俗っぽいものは、ちゃんと向き合ってみれば結構綺麗で可愛くて魅力的だ。それに合わせて時折財布がきゅうきゅうと聞いたことのない悲しい音をたてているけれど、それら一つ一つは今の私の年の人間ならまあ通過しているものではあるらしいので財布を撫でつつ享受することにした。一年前は一人で店に入って試着するのがとにかく苦痛だったが、ある日妹と二人で買い物に行って自由気ままに試着を繰り返すその様に圧倒されて、いつの間にか買い物のハードルが下がっていた。今でも妹はその日気分で入った店で自分に似合うものを見つけては良い買い物を続けている。まだ入るのに気後れする店は多いが、少しずつ楽しんでいけたらいいと思う。パーソナルカラー診断やら骨格診断やら、絶対にさっさと行った方がいいのだがこの頃自分自身で似合う色味や服の形がぼんやりとわかってきているため、大金を払って診断を受けに行くためにはまだ腰が浮きそうにない。ただ、今まで興味を持てなかったものは、レールや比較対象を明確にしないまま無理に選ぼうとしていただけだったのだと気付いた。100から選ぶのではなく、自分に似合う40、自分が必要な20、自分が好きな10という風に絞っていければ近い将来きっと重い描く理想的な買い物ができるようになる。

生まれて初めて貯金が足りないと感じるようになった分、いつも以上にしっかりと働くようになった気がする。そんでもって自分の自給の低さに改めて目が回る。愚痴る割に実際の職場環境はそこまで悪いものじゃないからここまで続けてしまった。良い経験をたくさん積むことができたのであとほんの数か月だけど最後まで楽しく客をさばいていきたい。

 

なんども考えた進路先、悪くないんじゃないの、ととりあえず考えるのを保留することにした。いくら自分の専攻と全くもって被らない仕事内容だったとしても、いくら同期との飲み会が楽しくなかったとしても、まあ未来の自分がどうにかしてくれるだろうと思うことにする。これは決して自分への無茶ぶりではなく、自分への信頼故の思考の遮断だと思う。現に何度も「こんなところで私はやっていけるのだろうか」とべそをかいたことがあったが、まあこうして今生きてるじゃないか。それなりにいろんなところで楽しい思い出を作って来たし、その全てを自身に語りかけて微笑むことができるんだから、きっと次の場所でもどうにかなるだろう。私は自分が思うより引き寄せる力を持ってる。

 

卒論執筆を一番近くで見守って助けてくださった教授に「なんだかエリザベートと恋人みたいですね」と半分冗談、半分優しさを含んだあきれ顔で言われた。私のこれは恋と名付けてしまえばそれっぽいかもしれないけれど、厳密には違う。自己投影、同情心、憧れ、冷やかし、祈祷、そんなよくわからないものを乱雑に組み合わせたものだ。けれど何年もこの思いの矢印は変わらなかった。そういう意味では私が抱いた中で最も純粋な愛だったかもしれない。

卒業論文はひいひいと鳴きながらも自分の「好き」を叩きつけて完成までこぎつけたものだった。私は評価されなかったとしてもこのテーマで書くと決めた時から、不格好でも自分が愛せるものを作りたいと思っていた。

結果、自分が愛せるものにできた!と大きな声では言えない、なんとも中途半端なものを提出することになった。それでも、学校から賞をいただいて、ある意味で生まれて初めて自分の執筆物を見える形で評価される経験を得た。

小学生のころから漠然と、いつか多くの人が目にする文章作品を生んでみたいと思っていたのだが、いつの間にやら始まりの一歩を踏んでいたのかもしれない。

花束

1年前に自分が書いたブログを読んだ。

就職活動で短い期間ながらどっぷり病んでいた私が書きなぐったものだ。

なかなかに尖っている表現を使っているもんで、読みながらゲラゲラ笑って、一息ついて、考え込んでしまった。それなりに思うところがあったので書き記しておこうと思う。

 

私はどうにかこうにか就職することができた。就職活動を終えてからしばらく、「しばらく」と呼ぶにはずいぶん長い間、自分の選択を肯定しきれなかった。自分が働くことが悪い夢のように思えた。ビジョンを描くことが苦手で、今を生きることで精いっぱい。なのに、もしかしたら自分が就職する会社は恐ろしい、つまらない、自分には見合わない会社かもしれないと、不安な夜に思いついては何時間もぐるぐる考え込んで眠れなかった。

そうして始まった4月の頭、のっけから大コケしている。集合場所を間違えて、遅刻した。メールには太字の赤字で書かれていたのに間違えるのだから人事泣かせだ。阿呆としか言いようがない。ここで死ぬか、と墓石を注文するところだった。それは嘘だけど。

それでも人事の方の寛大さに支えられて、その後のイベントもどうにかこうにか乗り切っている。中学校の吹奏楽部でこんな事したら先輩に目をつけられて楽器室に呼び出されて説教されているところだ。

 

正直研修に対して、私はほとんど期待していなかった。中学時代の熱血塾での空気を思い出してじめじめしたし、どこぞのつまらない大人か、けたたましい大人が講師を務め、根性論のマナー研修と摩訶不思議が解明されないまま暗記で乗り越える技術研修が展開されると平気で思っていた。

実際始まってみると、講師の方々は皆丁寧で親しみやすい優しい口調と立ち振る舞いが印象的だった。名刺交換一つとっても教える際、私にも納得できるような背景や成り立ちと一緒に教えてくれたので、因習だと思っていたものが実はちょっとした面白い文化だと気付くことができた。

おなじく技術研修でも、人懐っこい講師の方が小難しい構文に対してたとえ話を引っ張ってきてあーでもない、こーでもないと試行錯誤しながら教えてくれた。お昼明けは近くの店で昼食をとって3倍ほどに膨れ上がった腹をぺちぺち叩いて見せながら、演習で死にそうな顔をした私達を鼓舞してくれた。

私にとって予想外に学びになったのが定期的に設けられるスピーチの機会だった。私自身はそこまで喋ることに苦手意識を持っていなかったが、限られた時間の中で決められたお題に沿ってマナーを意識しつつ一人ぼっちで話すのは、思ったよりも簡単ではなかった。初回、うまく話せた!と思ったのに後々講師の方にこと細かくアドバイスをいただいてへこんだ。的確なアドバイスだからこそ、へこむのだ。それでも、しばらくたつとゆっくり受け入れられるようになる。いつも私はそう。最初に受け入れられなかったとしても、ちゃんと受け止めて自分の成長に繋げられる強さがある。私は「自分自身と約束を交わして、どんな形にせよそれを守ることができる」という強さがあることを発見できた。

複数回本番を迎えた後の最終回、講師の方に「あなたは本番の度にうまくなるね」と感心した口調で言われたのが本当に本当に嬉しかった。自分との約束を積み重ねられることも嬉しいけれど、それを人に見える形にまで昇華させられたというのはまた別の大きな喜びとやりがいに繋がるものだ。

研修中に苦手だった同期への自分の見る目が変わったのも興味深かった。他力本願なくせに口だけは達者で、私のように地道な積み重ねを理想としてこなしている人間とは真逆の人間。その人と話していると、勝手に傷ついてしまう自分がいて、できる限り距離をとりたかった。自分が積み上げたものや、大切にしていたものが簡単に踏みにじられてしまいそうで怖かった。

影響を受けたのは同じチームに所属していた別企業の子だった。とにかく話し上手で、雑談のネタとして所謂「すべらない話」を幾つも持っていた。人への甘え方、頼り方に嫌味が無く、自然に仲間に指摘ができるのに不思議と言葉にトゲを感じなかった。人に頼るのが苦手で、以来の仕方も下手くそで、指摘する際ついついキツイいい方になってしまう私からしてみれば、アイドルみたいなものだった。

私と真逆の性質を持った二人は研修期間ずっと漫才のような小気味よい会話を繰り返してケタケタ笑っていた。私はだんだんとそれを聞くのが楽しくなってきて、二人のことをもっと知りたいと思った。

何か一つのミッションを与えられた際、なりふり構わず目的達成に着き進めるのは私の長所のはずだった。しかし、私と同じような進み方をしない人もいる。これまでは無意識にそういう人を軽蔑して、場合によっては排除しようとしていたかもしれない。

けれども進み方は一辺倒でなくてよい。というより、一辺倒でない方がいいのかもしれない。私が歩めなかった道をホップ・ステップ・ジャンプで駆けていくいく二人を最初疎ましく思っていたけれど、そんな道も、そんな進み方もあっていいんだなぁ、と妙に落ち着いた思考で結論付けた。そして私も、色んな道を色んな進み方で進んでいい、時々のんびりしてもいい、とはじめて許された心地がしたのだった。

尊敬できる、理想と思える人は何人いたって良いだろう。また一人、素敵な大人に出会う機会にも恵まれた。私達のクラスのマネージャーを担当していた方は、物腰柔らかでチャーミングで、まだまだ社会に出たばかりの幼稚園児のような私達に対しても目線を合わせて笑顔で対応してくださるような方だった。ちょっとした件で声をかける際でも、名簿を確認してから席まで来てくれるような細やかさには驚かされた。私は未だかつてここまで印象が良い人を見たことが無かったもので、何度か個人でお話しさせていただいた際はその言動一つ一つを辿ってうっとりとしてしまった。最後にひっそり挨拶できるタイミングがあったので、そこで思い切って「○○さんのような社会人になりたいって思いました。」とお伝えしてみた。照れくさげに笑みを浮かべたその方がいつかどこかで苦しむようなことがあっても、私のこんなちょっとした言葉で良かったら支えの一つにしてほしいと願うばかりだ。

そんなこんなであっという間の2か月間だったのだが、私が大昔から続けている文字を書くことが強みだと言い切れることがあるなんて思いもしなかった。小説家になると意気込んでいた小学生の頃や、先生からのシール欲しさに毎日日記を全行書いていた中学生の頃を経て、なんでもかんでもメモを取る癖がついてのは大学入ってからの話だ。特別な日だけでなく、なんでもない日の気持ちの揺らぎや記憶に残った人の仕種、絵、言葉、なんでもいいから書き残すと、自分の足跡が見えて嬉しい。そうして研修先でも勉強用のノートにああでもないこうでもない、悔しかったこと嬉しかったこと訳が分からないことを書き連ねていたら、日報作成や復習の際にそれが私の助けになった。記録の手段であり発散の手段であり、自分を理解する手段でもあった文字を書くことが、巡り巡って私の学びを支えてくれるのは、まるで何人もの私が今を歩く私の背を押して、手を引いて、何人もの私が力を合わせて新しい場所へ飛び込もうとするようで心強かった。

そう、そういうことなので、1年前の私は聞こえていないかもしれないけれど、私の強みは私がよく知っているからどうか苦しみ抜いてほしい。本当ならば安心させてあげたいけれど、その時その時に生まれる感情や言葉こそが私を助けてくれるから。

 

感情を消せればよかった、自分なんていても価値が無いと思っていたのだけれど、私はもう少し踏ん張ってみることにする。

いつも生き生きとした感情を、ありのままの言葉を、ありがとう。

 

言葉の花束をあなたに。

生き方、死に方、待ち方

 老いた先にも新しい何かがあると信じているのでできれば長く生きていたいと思っていた。

 

でも時々もしかしたら勢いよく開花して、伝説的に悲劇的か、それか惨めな最期が待っているのではないかと思う時がある。ふとそう感じたのは、暇つぶしに行った性格診断の結果でマリリン・モンローの言葉に出会った時だった。

 

I'm selfish, impatient and a little insecure. I make mistakes, I am out of control and at times hard to handle. But if you can't handle me at my worst, then you sure as hell don't deserve me at my best.

 

私は自分勝手でせっかちでほんの少し不安定。間違いを犯すし自分をコントロールできないときもある。でも私の最悪の時にきちんと扱ってくれないなら、私の最高の瞬間を一緒に過ごす資格はない。

 

こんなことを公に言いきれてしまう人間はそう多くないと思うけれど、良くも悪くも私はこの言葉に自分を重ねてしまった。

調べてみれば、マリリン・モンローは名声を手にしながら幸せとも不幸せとも言い切れない人生を歩んでまだ若くして死んでしまったらしい。死の原因も未だ明確ではないという。

私は今のところ幸せに生きている。過去に戻って何かやり直したいと「心の底から、本気で」思っていることは一切ない。きっと何度でも同じ過ちを遅かれ早かれ犯してしまう。それなら今のままで自分がしでかしてきたことを背負っている方がよっぽどいい。でも未来のことなど何一つ予想できない。もしかしたら明日には酷い事故に遭って原型を留めないモノになってしまうかもしれない。もしかしたらあと100年生きて最高齢者として有名になるかもしれない。

 

客観的に自分を見てみれば、人並みに生きて人並みに死ねたら幸せなんじゃないかとも思う。まったく、私ときたら、なにをしても感情的で、刺されそうだし孤独になりそうだし自分自身に振り回されて突発的に死んでしまいそうだから。マリリン・モンローみたいに世間を騒がせまくって検死してもらうことになるかもしれない。陰謀論なんか唱えられて政府と私の死が結びついているなんて噂が出まわったら面白いと思う。いや、全然面白くないか。

耐える訓練をすればこの性格も少しは変わるのかもしれない。実際少しは変わっただろう。小学二年生の頃、下駄箱掃除中にクラスメイトの男子に腹を立てて足元にあったバケツを蹴り飛ばした。バケツの中の水は床に勢いよく広がっていった。その後担任に怒られて惨めに一人雑巾で床をぬぐった。床に這いつくばりながら、そこを通りかかった当時好きだった男の子と目が合ったのを覚えている。変な記憶。今はそこまで感情に振り回されることはない気がする。少なくとも物理的になにかしでかすことはなくなった。

ただ癇癪を起こす癖は治らない。おかしなことに、普段は論理的な人間だと評価されることが多いけれどそれは半分以上間違いだ。「感情的」というワードはネガティブな意味を大いに含む気がしている。わかっている。私は「嗚呼誰か自分の感情から自分を守ってくれ」と勝手に願っていて、それでも、結局感情なしで生きていくことなど自分にはできないのだと感じる。

「感情的」という表現は正しく私をかたどっているとは思うものの、世間一般の見解や自身の過去での失敗談のことを考えてみれば、容易に「感情的」を外に向けて自身のタグとして紹介できない。

面接を受け続けて気付いたが、自分は感受性の豊かさ故にとにかく失敗し続けてきた。が、それをなかったことにしたいとは不思議と思わない。夜中の脳みそは本当に意地悪くて、まるでYouTubeの「あなたへのおすすめ」のようなテンションで、脈絡なく、私がしでかした大小様々な過ちを過去7年ぐらいに遡って思い出させて来る。ちょっと前まではそれにいちいち落ち込んで自己嫌悪に陥っていたけれど、最近は一旦ダメージは受け取るものの、すぐに「次の動画」に移れるようになった気がする。自分の愚かさを全く思い出さないよりは定期的に頭を抱える方がきっと私のためになると考えることにした。何度も思い出していちいち気分を害するのは自分のシーン演技の動画を見返すことにとても似ている。自分を変えていくためには、どんなに醜くいものでも自分の産物を受け入れる必要があるのだ。実際に改善することもあれば、実はそんなに改善されてなくとも目が慣れてしまうこともあるわけだが、結果自分の技能にしろ目にしろ変化はもたらされる。

変化は常に必要なのだ。私が特に求めていなくても、生きるために変化することは必要で、それを受け入れられなくなった瞬間私は死んでしまうのだと思う。

受け入れられずに死ぬなら受け入れて死ねればいい。繰り返し考えるが、何が自分にとっての幸せかはわからない。自分のことだとしても明日の自分の幸せと一週間後の自分の幸せは比較したり、決定したり、できない。

 

私はきっといつか独りになる。

一人で生きなければならない自分の一番近くに生きるのが自分なのだから、自分勝手でせっかちで不安定な自分をきちんと扱う自分でありたい。最高も最悪も自分と共に見つめていたい。

経過報告

一年というのは長いようで短いと知った。でも一年あれば変化をもたらして、変化を受け入れることができるのだと学んだ。久しぶりに「経過報告」的なものを書こうと思う。

 

ドイツ語の授業をようやく楽しいと思いながら受けられるようになった。先生の人柄が大きく影響しているところは勿論ある。が、何年か前に同じ教授に教わっていた授業のことを思い出してみると、こんな自分でもずいぶん成長したもんだと自分に驚かされる。聞き取れる情報量が全然違う。先生の冗談を拾うことができるようになって、授業内にげらげら笑えるようになった。意味を知らない、綴りも知らない単語を試しに電子辞書で打ち込んでみた時のヒット率が格段に上がった。おんなじ単語を何回も調べてると判明すると少々へこむけれど、何回も調べていればその内覚えるでしょうよ、と現在「そこに在る」自分の語学に対するモチベーションとうまく向き合えるようになった気がする。そして、間違いを指摘されても、それを恥ずかしいと思う暇などないのだと知ることができた。わかりません、と、もう一度お願いします、を口から滑り出させるハードルが下がった。授業が楽しいのは本当に幸せなことだと思う。

 

自分は万人受け、と言われる匂いの中でも、所謂女子力高めの「甘い」香りは苦手なのだと知った。バラの香りのハンドクリームは好きでも、バラの香水は苦手なのかもしれないと気付き始めた。そして、意外と柑橘の香りが好きなのだと知った。好きな香水が四種類見つかった。ブルガリのウィークエンド。グッチのブルーム。インプのマンダリンジンジャー。ジョーマローンのウッドセージ&シーソルト。もっともっとお金に余裕ができたら小さなボトルで買えたらいいな、とまた一つ夢を持った。

 

今まで紫は理想のキャラクター色だと思っていたけれど、黄色は自分の色ではないと思っていたけれど、実はどちらも私の色になっていた。誕生日に友人が私をイメージしてドライフラワーのミニブーケをくれた。紫と黄色は対照的かもしれないが私を思い出すとその二色が思い浮かんだ、と書いた手紙が添えられていた。ブーケは机の前に飾ってある。見る度に幸せな気持ちになる。私には色んな側面があって、それが時にこんなに美しい色合いを作り出すのだと。紫と黄色というコンビネーションに意味を感じながら、これからも選択していきたいと感じた。

 

あなたは受け身だ、と母にきっぱり言われて傷ついた。思い出の中から抜け出して、現実の中で楽しさをあえて探しに行くことは、私の方針とは少しずれる。それでも人と時間を共にしたいから相手の希望を聞くことで自分の中の矛盾を埋めているのだと知った。

同時に、私は会話がなんとなく億劫だと感じる瞬間があると気付いた。投げられたものに対して考えることはごまんとある。けれどそこで言わなくていいことばかりが優先的に思い浮かんでしまうもんで、曖昧に相槌を打ってしまうのだろう、そしてその曖昧な相槌が自分の中で不快なのだろう、と分析した。

 

「理性が全てを語れるわけではない」と、個々人だけが解るもの、個性を大切にしようとする「ロマン主義」と私、やけに気が合うな、と気付いた。カスパー・ダーヴィド・フリードリヒの絵を、以前見た時よりも好ましく感じる。後ろ向きばかり描いていることをつまらないと思わなくなった。好きなハイネの詩ができた。恋愛云々や社会批判以外のハイネの側面を見て共感できたのはとても嬉しい。ラムドール論争の終結をもたらした「芸術家は、美の法則に反しない限り、伝統の圧迫から自らを解放する自由がある」という考え方、ここまで美しく納得させられる言葉があっただろうか。

 

エリザベートと詩、こんなに私が知らない部分がまだあったことが本当にうれしい。ドイツ語の詩を読み解くのは勿論難しいところもあるけれど、生きた人間としてエリザベートが遺した作品を読むと、やっぱり人間は面白いなあと感じられる。どんなに生きるのが下手くそな自分でも、生きてみればいいと思える。そして、自分が生きた証を残すこと自体には必ずしも価値はないけれど、それでも私は残すのがいい、と決意した。何かを残すことで名声が欲しい訳でも、私を思い出してほしいわけでもない。私の場合はエリザベートとは少し違う。大義名分はない。ただ書きたいから、残したいから、こうして文章を書いている。

 

自分の苦しみや悲しみにこそ揺らがない真実が眠っていて、そこから目を離さず、絶えず自問自答を繰り返すことで、それを乗り越えることもできるのだと知った。ちょっと前まで嫌で嫌で仕方なかったものを目の当たりにしても、今は不思議と平気だ。それどころか笑みさえ浮かぶ。諦めのようなものなのか、慣れてしまったのか、どちらでもいい。私は私の感情から私を守る盾をまた一つ見つけられたのだから。

 

父と母も人間だと知った。父と母と平等な関係を望んでもいいと知った。言葉を交わせば理解できるところもあるし、永遠に分かり合えないであろう部分も悲しいかな存在する。そして、言葉以外の部分で、例えば頑張って御馳走すること、自分が何かを乗り越える姿を見せること、時間を経過させること、そういうことで関係が良い意味で変化してくれることもあるのだと、知った。夢を託されたように感じても、私の人生は私が手綱を握っているのだ、と断ることもできるし、勝手に気負って理想像に沿うことで必ず幸せになれるわけでもないのだと知った。それでもなお、自分には育ててもらった恩があって、できるならばこれからも良好な関係を築き続けていたい、という自分の願いもそこにちゃんとあるのだと知った。

 

ようやく、一人で店の中を闊歩して、気になる商品を手に取って、身に着けて、購入まで踏み切れるようになった。(ここまで本当に笑ってしまう程に長かった。)自分の似合う似合わないなど、カンでいいのだ、好きなら好き、どうでもいいものは買わなくていい、それだけだった。物欲がちゃんと湧いて、自分が必要なものリストと照らし合わせて衝動買いを避けようと努力できるようになった。そして衝動買いしてしまったとしても、もて余さずに対処しようと動けるようになった。周りに合わせて買うことになるなら、一人で先に買ってしまえばいいのか!と勝手に合点がいった。

 

一人で旅行できるな、と自分を評価できるようになった。一人でオーストリアからイタリアへ、スロベニアからオーストリアへ、そしてコロナウイルスの影響を受けてしっちゃかめっちゃかだったオーストリアから無事日本へ、一人でも移動できたのだから。

一人で旅行してみたい、と思えるようになった。電車に揺られるのが楽しくて、高いところに上るのが好きで、美味しいものを食べるのが好きだと気付いたから。

 

アルバイト先で頼られるようになった。最年長というフィルターがかかっているのもそうだけれど、一番には、人に頼ることを学んだからだと思う。場数を踏めばちゃんと強くなれるのだと安心した。堂々としていれば誰かに意地悪されてもそれに対応できる冷静さを持ち合わせていられると知った。なんだかんだ卒業まで続けてしまおうか、と思えている。

 

尊敬できる大人にまた一人であった。正しく叱咤激励できる、陽気な人だ。うまく言い表せないが、こう、私の生き方の軸と、その人のそういう素敵な部分との交点を見つけられたので、頑張って近づこうと思う。もうしばらく会えないのは寂しいけれど、会いに行こうと決めている。

 

やはり自分でもっともっと選択していこう、と自分で自分と約束した。何か選択できないことにぶつかれば理由をいつか解明しよう。その間は別のどこかで選択しよう。

選択することは作ることだと思う。何かを作ろうと踏ん張る時こそ、私は私が一番生きていることを感じられるから、だから選択を忘れないように約束しよう。

守護魔法をほんの少し

守るという言葉が何故か好きだ。漢字でもひらがなでも、ただの音でも、その包み込む雰囲気が好きだ。

 

私の母の話をしたい。母は情があるのにどこか淡白な人で、馴れ合い譲り合い、こまめで露骨な愛情表現をしない。少し前までどこまでも一匹狼な母を尊敬しつつ、どこか母の人生に触れられていないような不思議な物足りなさを感じていた。親元を離れてみなければ分からないものがあるとはよくいったもので、文明の利器を通してのみのやり取りになって初めて、自分が気付かなかった様々なところに母が種をひそかに植えていてくれたのだと知った。

 

母が昔勧めてくれた漫画で『いつもポケットにショパン』という作品がある。

主人公・麻子の母は有名なピアニスト。麻子が幼い頃に麻子の父と離婚し、その後彼女を年齢にそぐわないやり方で厳しくしつけ、やがて麻子の祖母に彼女の世話を任せると放任主義の態勢をとるようになる。近所のピアノ教室に一緒に通う少年・きしんちゃんの心優しい母に憧れつつ、実の母とは溝を埋められずに日々を過ごす麻子。きしんちゃんとの別れの後、精神的に孤立していく麻子は音大に入りつつも次第にそこでピアノを学び続ける自分に価値を見出せなくなっていく。しかし天才ピアノ演奏者へと成長したきしんちゃんとの運命的な再会を果たしたことをきっかけに幼い頃の幻想に隠された現実を知ることになる。現実は冷たいが、ただ麻子を悲しませるだけの展開にはならない。先の予想をさせないままでスピード感をゆるめず淡々と進んでいくあたたかい物語と、美しくて豊かな筆のタッチが魅力的な作品だ。

その中で今でも時折思い出して思いを巡らせるシーンがある。

物語の終盤、自分の母を「自分の人生のルールを司る支配者」としてではなく、一人の人間として認識できるようになった麻子はふと思い立って母の公開ピアノ講習を覗きに行く。育ちの良さそうな自分と同じくらいの少女にピアノを教える母。自分だって教わったことないのになぁ、と麻子は心の中で母と自分の関係に冷たさ…ではなく滑稽さを感じて一人笑う。講習中の母がふいに発した「野菜のみじん切りみたいに」という指運びの比喩に講習を見ていた聴衆が揺れる。講習後、「でも先生、野菜のみじん切りなんて…娘の大事な指を危険にさらすことなんて私はさせていませんわ。」と生徒の母親が笑う。

そこで麻子の母は言うのだ。

「…麻子は、シチューが得意です。」

その得意げな微笑を見て、麻子は今まで自分と母との間にあった全ては不器用な母が自分のために広げたあたたかい手だったのだ、と気付くのだ。

 

私の母は有名なピアニストではない。厳しく私をしつけたわけでもない。私のことを他所で得意げに自慢している所なんて見たことないし、そもそも自慢しているのか、自慢に思っているのかも知らない。

それでも母が私を思って植えた種が、私の中で芽を出して始まったばかりの人生の中で意味を持ち始めている今、麻子のこの気づきの瞬間と重なってハッとさせられるのである。

 

 

反面、守られるだけの人間でいたくないと思ったのはいつからだったか。

 

つい先日も、私を気遣ってか、帰り際に自分の出る改札を過ぎてもついてこようとする人にやんわりとそのまま帰るよう促してしまった。「気を付けて」とかけられた声に、胸の内から濁った感情が湧き出て、そのまま見送ることもなく駅を出た。

 

異性同性関係なく、初対面の人・友人・家族関係なく。不思議な価値観で私を俯瞰で見ようとする人達の言葉はどうしてこんなに「へんてこ」に響いてくるのだろう。

 

パートナー関係の話が一番わかりやすいだろうか。

パートナーができることで知り合いが何かを相手に任せることにオープンになっていくのを見てきた。一人で背負い込みがちの友人達の荷物をうまい具合に拾い上げて助けようと手を伸ばすパートナーに心底関心しつつ、どこか違和感を抱いていたのも嘘じゃない。

でも何て言えばいいのだろう。例えば、男だからお金を払う、相手にサプライズを企画する、プライドを守らせてもらう。女だから甘える、夜遅くに送ってもらう、笑顔でいる。そういうよくわからない縛りで自分に価値を見出すのはむなしくないのだろうか。荷物を分け合って長く旅を続けるなら、この人がいいか、と思って相手を選ぶものじゃないのか。相手がいたことないのにそんなことばっかり考えてる。

私は「パートナーができること」=「単純に自らが庇護対象になる」ということじゃないと信じたい。

 

「そうすることで守られるべきものが守られるのだ」と何の根拠もなしに謳う言葉が苦手だ。「守るため」に言動を選ぶなんてあまりに受け身になってしまう。自分で一人で考えてみたけれど、やはり「作るため」の選択でしか事物は前進しないと思うのだ。

 

私は私の寂しさからこれを「へんてこ」と感じるのかもしれないとも思った。そして時間をかければかけるほど、これらは全部、より「へんてこ」な響きで私の周りを踊り続けるようになった。

 

「へんてこ」な言葉を許すことが可愛さなのかもしれない。この可愛らしさはもはや私にとって永遠に手に入れられない宝石のように尊いものなのかもしれないし、知らなくても生きていけるようなもの好きのための物なのかもしれない。真相は10年後に解ればいい方だな、と長い目で見ている。

 

 

守る、と言っては変かもしれないけれど、私がどうしても人に心を向けたいと思った時にやることがある。単純に、誕生日やお別れ前の贈り物を時間をかけて選ぶ。手紙だったら、時間をかけて書き連ねる言葉を選ぶ。

そうすることで、自分から発信された何か、生み出された何かが、届いた先のその人を幾重にも包んでいつか辛い目に遭った時でも守ってくれるようにと自分勝手に念を込めている。

もしかしたら私が先程まで「へんてこ」と呼んで散々訝しんでいた言葉の数々の方が直接的でわかりやすくて簡単なのかもしれない。そうだとしても、自分に合った方法を選ぶことが、こういった局面では何よりも大切なのではないか。

なんとなくそう感じて、いつかもっと良い方法を見つけるまではこのおまじないを信じ続けようと思っている。

結果

好き嫌いと得手不得手は似ているようで全然違う。

自分の好き嫌いは饒舌に語れるのに、自分の得意なこと不得意なことを考えることはとにかく難しい。

過去の全てにしがみついてるくせに。過去の全てが私を作ったんだって知ってるくせに。いや、だからこそなのか、私は自分の得意なことを思いつくことができない。

「就活なんか、自分を盛ればいいだけだよ!」と友人が言った。私には盛るようなタネさえ思いつくことができない。「社会のためなんてくそくらえでしょ」と笑いながら、平気で人は社会のためになるようなことをする。私は本気で社会のためになるようなことなどできないのに。そこで一つ気付いた。私は社会のために使えそうなものは持っているのかもしれない、でも「社会のために」と自分の中にあるそれを利用するのがもう心底嫌なのだろう。

 

おしまいだ、ばかもの。

 

人に媚びを売ったりゴマをするような行為を自身の根底でもう本当に頭ごなしに軽蔑しているのだと思う。人が嫌いなわけじゃない。人に優しくありたい。時には媚びを売れるしゴマもすれる、たぶん。でも、「誰かの名のもとに自分の言動を提供すること」に対する違和感がどうにもこうにも拭えないらしい。

 

得意なことやら適性やらを考えるために過去の自分の記憶へひとっとび。思い出せることの大体が反省と後悔と、生乾きの洗濯物に袖を通すような気持ち悪さ。過去に酔えた頃は幸せだったのかもしれない。今が不幸すぎるだけかもしれない。どっちだっていい。今の私が一番必要なタネはどこにも見つからない。

 

ありがたいことに何人かの人に自己分析の手伝いをしてもらった。ビックリするぐらい矛盾した意見が出そろって、そういえば私って多面体だったわ、いや生命の形は全然数学的じゃなかったんだったわ、そういえばたまごに何故継ぎ目がないのかっていう謎は未だ解明されてないんだっけ。とかなんとか思った。社会への興味が昔から微塵もわいてこないので、そうやって皆各々が時間を使って描いてくれた私のどの部分をどの職種と結び付ければいいのかも分からなくて、結局全然利用できないでここまで来てしまった。

私と正反対の性格の母に、今の自分に足りないものは何か尋ねれば、情報収集が圧倒的に足りないと言われた。1000000000%その通りだし、なんならそんなのは前提なので、それ以外の新しい意見が欲しいとさえ思っていた。いつも私は母に突破口を求めてしまって、でも母は私に媚びずに現実の、一番地道で手堅い方法を示す。そんな母を正直に尊敬していて、同時にこの思考の溝は一生埋まらないのだと勝手に残念に思う。

 

私は矛盾した人間で、いや、「私」という主語はおかしい。人間は皆矛盾した人間で、なのに、人間の中でも社会に愛される素質がある者が就職活動で「成功」する。私は自分の中にある矛盾を取り繕う・ごまかす・それを社会のためにめかしこませるのが苦手だ。大嫌いだ。そう叫びたいけど、そう叫んでいいのは私みたいに暢気に遊んでこの三か月を過ごしてきた人間じゃなくて、就職活動にどっぷりつかってにっちもさっちもいかなくなって、駅のホームで号泣した経験がある人だろう。最悪だ。私は努力しなかった分、本当の不条理も知らないもんで、「世の不条理」を叫ぶ権利もない怠け者だ。そうやってバカみたいに落ち込む時間すらもう残ってないから、淡々と目の前にあるものを進めていこうと思う。

 

で、私の得意なことの話だけど?

 

はあ、地球の裏側まで回れば見つかるかもしれないし、もう一生見つかることが無いのかもしれない。

 

 

自分を含めた社会に何か言いたかったけど何も言えなかった結果