経過報告

一年というのは長いようで短いと知った。でも一年あれば変化をもたらして、変化を受け入れることができるのだと学んだ。久しぶりに「経過報告」的なものを書こうと思う。

 

ドイツ語の授業をようやく楽しいと思いながら受けられるようになった。先生の人柄が大きく影響しているところは勿論ある。が、何年か前に同じ教授に教わっていた授業のことを思い出してみると、こんな自分でもずいぶん成長したもんだと自分に驚かされる。聞き取れる情報量が全然違う。先生の冗談を拾うことができるようになって、授業内にげらげら笑えるようになった。意味を知らない、綴りも知らない単語を試しに電子辞書で打ち込んでみた時のヒット率が格段に上がった。おんなじ単語を何回も調べてると判明すると少々へこむけれど、何回も調べていればその内覚えるでしょうよ、と現在「そこに在る」自分の語学に対するモチベーションとうまく向き合えるようになった気がする。そして、間違いを指摘されても、それを恥ずかしいと思う暇などないのだと知ることができた。わかりません、と、もう一度お願いします、を口から滑り出させるハードルが下がった。授業が楽しいのは本当に幸せなことだと思う。

 

自分は万人受け、と言われる匂いの中でも、所謂女子力高めの「甘い」香りは苦手なのだと知った。バラの香りのハンドクリームは好きでも、バラの香水は苦手なのかもしれないと気付き始めた。そして、意外と柑橘の香りが好きなのだと知った。好きな香水が四種類見つかった。ブルガリのウィークエンド。グッチのブルーム。インプのマンダリンジンジャー。ジョーマローンのウッドセージ&シーソルト。もっともっとお金に余裕ができたら小さなボトルで買えたらいいな、とまた一つ夢を持った。

 

今まで紫は理想のキャラクター色だと思っていたけれど、黄色は自分の色ではないと思っていたけれど、実はどちらも私の色になっていた。誕生日に友人が私をイメージしてドライフラワーのミニブーケをくれた。紫と黄色は対照的かもしれないが私を思い出すとその二色が思い浮かんだ、と書いた手紙が添えられていた。ブーケは机の前に飾ってある。見る度に幸せな気持ちになる。私には色んな側面があって、それが時にこんなに美しい色合いを作り出すのだと。紫と黄色というコンビネーションに意味を感じながら、これからも選択していきたいと感じた。

 

あなたは受け身だ、と母にきっぱり言われて傷ついた。思い出の中から抜け出して、現実の中で楽しさをあえて探しに行くことは、私の方針とは少しずれる。それでも人と時間を共にしたいから相手の希望を聞くことで自分の中の矛盾を埋めているのだと知った。

同時に、私は会話がなんとなく億劫だと感じる瞬間があると気付いた。投げられたものに対して考えることはごまんとある。けれどそこで言わなくていいことばかりが優先的に思い浮かんでしまうもんで、曖昧に相槌を打ってしまうのだろう、そしてその曖昧な相槌が自分の中で不快なのだろう、と分析した。

 

「理性が全てを語れるわけではない」と、個々人だけが解るもの、個性を大切にしようとする「ロマン主義」と私、やけに気が合うな、と気付いた。カスパー・ダーヴィド・フリードリヒの絵を、以前見た時よりも好ましく感じる。後ろ向きばかり描いていることをつまらないと思わなくなった。好きなハイネの詩ができた。恋愛云々や社会批判以外のハイネの側面を見て共感できたのはとても嬉しい。ラムドール論争の終結をもたらした「芸術家は、美の法則に反しない限り、伝統の圧迫から自らを解放する自由がある」という考え方、ここまで美しく納得させられる言葉があっただろうか。

 

エリザベートと詩、こんなに私が知らない部分がまだあったことが本当にうれしい。ドイツ語の詩を読み解くのは勿論難しいところもあるけれど、生きた人間としてエリザベートが遺した作品を読むと、やっぱり人間は面白いなあと感じられる。どんなに生きるのが下手くそな自分でも、生きてみればいいと思える。そして、自分が生きた証を残すこと自体には必ずしも価値はないけれど、それでも私は残すのがいい、と決意した。何かを残すことで名声が欲しい訳でも、私を思い出してほしいわけでもない。私の場合はエリザベートとは少し違う。大義名分はない。ただ書きたいから、残したいから、こうして文章を書いている。

 

自分の苦しみや悲しみにこそ揺らがない真実が眠っていて、そこから目を離さず、絶えず自問自答を繰り返すことで、それを乗り越えることもできるのだと知った。ちょっと前まで嫌で嫌で仕方なかったものを目の当たりにしても、今は不思議と平気だ。それどころか笑みさえ浮かぶ。諦めのようなものなのか、慣れてしまったのか、どちらでもいい。私は私の感情から私を守る盾をまた一つ見つけられたのだから。

 

父と母も人間だと知った。父と母と平等な関係を望んでもいいと知った。言葉を交わせば理解できるところもあるし、永遠に分かり合えないであろう部分も悲しいかな存在する。そして、言葉以外の部分で、例えば頑張って御馳走すること、自分が何かを乗り越える姿を見せること、時間を経過させること、そういうことで関係が良い意味で変化してくれることもあるのだと、知った。夢を託されたように感じても、私の人生は私が手綱を握っているのだ、と断ることもできるし、勝手に気負って理想像に沿うことで必ず幸せになれるわけでもないのだと知った。それでもなお、自分には育ててもらった恩があって、できるならばこれからも良好な関係を築き続けていたい、という自分の願いもそこにちゃんとあるのだと知った。

 

ようやく、一人で店の中を闊歩して、気になる商品を手に取って、身に着けて、購入まで踏み切れるようになった。(ここまで本当に笑ってしまう程に長かった。)自分の似合う似合わないなど、カンでいいのだ、好きなら好き、どうでもいいものは買わなくていい、それだけだった。物欲がちゃんと湧いて、自分が必要なものリストと照らし合わせて衝動買いを避けようと努力できるようになった。そして衝動買いしてしまったとしても、もて余さずに対処しようと動けるようになった。周りに合わせて買うことになるなら、一人で先に買ってしまえばいいのか!と勝手に合点がいった。

 

一人で旅行できるな、と自分を評価できるようになった。一人でオーストリアからイタリアへ、スロベニアからオーストリアへ、そしてコロナウイルスの影響を受けてしっちゃかめっちゃかだったオーストリアから無事日本へ、一人でも移動できたのだから。

一人で旅行してみたい、と思えるようになった。電車に揺られるのが楽しくて、高いところに上るのが好きで、美味しいものを食べるのが好きだと気付いたから。

 

アルバイト先で頼られるようになった。最年長というフィルターがかかっているのもそうだけれど、一番には、人に頼ることを学んだからだと思う。場数を踏めばちゃんと強くなれるのだと安心した。堂々としていれば誰かに意地悪されてもそれに対応できる冷静さを持ち合わせていられると知った。なんだかんだ卒業まで続けてしまおうか、と思えている。

 

尊敬できる大人にまた一人であった。正しく叱咤激励できる、陽気な人だ。うまく言い表せないが、こう、私の生き方の軸と、その人のそういう素敵な部分との交点を見つけられたので、頑張って近づこうと思う。もうしばらく会えないのは寂しいけれど、会いに行こうと決めている。

 

やはり自分でもっともっと選択していこう、と自分で自分と約束した。何か選択できないことにぶつかれば理由をいつか解明しよう。その間は別のどこかで選択しよう。

選択することは作ることだと思う。何かを作ろうと踏ん張る時こそ、私は私が一番生きていることを感じられるから、だから選択を忘れないように約束しよう。