美味しい我が子

就職活動の一環で所謂自己分析をやっている。

自分にとってやっていて楽しいこと、夢中になってできたことを思い出して、そこを自分で深堀りしてどうしたらそれが社会と繋がるか、社会との交わりの点を見つけなければいけないらしい。

私にとって夢中になって楽しんだ、働けたことといえば舞台作りだった。舞台作りといってしまうと広くなってしまうか。もっと言えば「演技すること」だった。

自己分析の基本は一つの感情を分解していくことにある。しかし私は演技をしている時の自分の感情をうまく分解できないことに気付いた。

例えば、自分が「H₂O」という感情を持っていたとする。「H」という要素が二個あって、「O」という要素が一つそこにくっついたもの=「H₂O」そのままを抱きながら働ける場所はそうないもので、それなら「H」だけ「O」だけみたいなものを探してみよう、という切り込み方だ。

でも私は「H₂O」を分解できない。私はそれを「H₂O」ではなく「水」としか呼べないから。

 

「なんで演技し始めたの」と問われる時私はいつもブロードウェイで見た『ライオンキング』を思い出す。ちょうど子役の少女が自分と同じぐらいの年齢だった。同じ年齢の少女二人、かたや客席で静かに息をのんで圧倒されている、かたやステージの上で歌って踊って心の底からまばゆい光に照らされたような笑顔を振りまいている。

私はそれが悔しかった。自分にそんな力があるかなんてそんなことそっちのけだ。自分が暗い客席で口を噤んでいなければならない側であることが悔しかった。今振り返ればそれだけ圧倒的で魅力的なステージだったから生まれた感情でもあった。

小学生の時、通っていた英会話教室で年に一回ある短い英語劇の発表が楽しみで仕方なかった。中学生の時、演劇部がないことを残念に思いながら吹奏楽部に入った。音楽を嗜むことは楽しいことだったけれど「これだ」とまでは思えなかった。高校に入って先輩方の舞台を観て、暗い客席で人生二度目の大きな悔しさを感じた。そして同時にこれ以上なく興奮していた。高校生になって初めてまともに舞台の上で演技をした。これが夢だと思った。演技をする毎秒、小さい頃の自分の夢が叶っている。それ以降舞台上で経験したことのない感情の揺らぎに気付く度、例え激怒していても世界に失望していても涙を零していても、心はまばゆい光に満ちていた。

 

私は自己中心的な人間だ。自分はひどい人間だと何度も何度も感じてきた。内省的な性格と趣味をしていると思う。神経質で負けず嫌いだ。疑い深くてこだわりが強い。本来暗い客席で光を見つめるべき人間かもしれない私は、いざ夢を叶えた自分の心の底を照らすこの「光」をどうやって分解すればいいのかわからない。

人を喜ばせたいのではなく、怯えさせ、悔しがらせ、圧倒させたいのだと思う。

自分のアイデアを活かしたいのではなく、自分の守るもののための養分となるアイデアを長い年月をかけて見つけ、来るべき日には世間の目に晒してみせたいのだと思う。

この感情は果たして、社会と私を結ぶのだろうか。

こんな私を友人は「親鳥のようだ」と形容した。過保護な親鳥。卵は私の役達だ。卵を傷つけるものなら本来敵ではないものでも敵とみなす。

親鳥になった私は卵がこの世の何より愛おしい。私が愛さなければ誰も愛することない存在だと心のどこかで知っているから。卵を守り通したいと思う。卵の話をいつまでも語れる親でいたいと思う。醜くて嫌われ者の愛しい卵。

では本番に舞台に立つ私の姿をした「あれ」は何なのだろうか。

私は雛が孵る前にその柔らかい羽肉を食べてしまったのだろうか。あたたかい血を飲み干してしまったのだろうか。そういえば本番の舞台上では確かに「飢えが癒えるような心地」がするのだ。