音のない日

なにも流していないのにイヤホンをつけてた、ってことがよくある。

 

留学してから、イヤホンは魔法みたいにいつでもどこでも私の個室を作ってくれるものだったことに気付いた。ルームメイトが同じ部屋のベッドでパソコンに映るドラマ観て大声で笑ってても、朝の匂いに泣きそうになっても、知らない場所で飛び出そうな心臓を隠すためにも、使える。スマホを買った時のおまけみたいについてくるイヤホンを使ってた時期もあったけど、あれはダメ。安全性の問題もあるけど、完全に外界の気配を遮断してくれるものじゃないと。自分で買うときは防音性の高さを優先した。好きな色にした。オレンジとピンクのちょうどいい塩梅、真ん中。サーモンピンクっていうのだろうか。自分の部屋だから自分の好きな色にしようと思った。家には私の部屋が無い。だから私が初めて自分のお金で買ったこのサーモンピンクのイヤホンは私が初めて自分の意志で持った自分の部屋だった。

帰国してから家族の中に戻って、自分が意識せずにイヤホンをしていることに気付いた。家族が嫌いなわけじゃないけど、人が発する音に惑わされたくなくて、イヤホンする。何か聞かれたら答えるし、話を聞きたいときは頷いて笑って意見を言う。でも時々そこで揉まれるのが嫌で自室にもどってベッドにゴローンと寝ころびたくて、でも自室が無いからイヤホンする。それだけ。

基本的に何するときも音楽を聴いている。受験生の頃学校にWi-Fiが無かったから聴きたいものなんでもダウンロードして教室で勉強してた。教室は人がいてもいなくてもどうしようもなく私の部屋にはならなくて、イヤホンしてても気が散った。スマホで遊んだ。進学校にいるコツコツが得意な女の子達は息をするように無言で机に向き合って、背中を丸めてシャーペンを動かしていた。私はそこに仲間入りすることができなくて、自分は努力ができない怠惰でダメな人間なんだな、と思いながら次の曲を自分の小さなプレイリストから探した。何をしている時も音楽を聴いた。前は好きで音楽を聴いたのに、高校に入った時辺りから考え事するのが苦しくて、考え事をする隙を脳に与えないために音楽を詰め込んでいた。ボカロが好きだったけどジャンルに縛られるのがどうにも苦手な趣味嗜好を持っていたからボカロじゃない、昔母と聴いていたクラシックとか小学校の頃「オシャレ組」と勝手に呼んでた、年齢のわりにませていた同級生たちが体育のダンスで選んでた曲とか、部活で練習してた歌とか、たまたまあなたへのおすすめで見知った曲とか、もう本当になんでも聴いていた。音楽は聞こえるか聞こえないかぐらいの音量が集中力を高めてくれるらしい。音楽なんて聴いて勉強すると集中できないらしい。音楽と勉強にまつわる生物学的論説は星の数だけあった。ある教科を勉強するとき特定の音楽だけを聴いていると、テストでわからなくなってもその曲を脳内に流せば思い出せるらしい。その情報を得たのが受験期が明ける頃に近かったので自分ではそれが本当かはわからなかった。ただ聴いてるだけだった。その時々で流したい曲は大きく変わった。カラオケに行き初めて分かったけれど、スローバラード、誰かが大切な人と別れた歌詞、そういうブルーな曲を好き好む傾向があった。でも、時々突き抜けるぐらい明るい曲とか、無意味に鬱々とした訳の分からない歌詞とか、そういう自分とは違うものも恋しくなって聞いた。自分の「好き」のスイッチがどこにあるのかわからなかったからザーっとスクロールして目を引いたものを選んでいた。同じ曲を2ヵ月聴き続けることもあって、でもその後、まるでおもちゃに飽きた三歳児みたいに、身勝手にそのアルバムごと放置することもあった。大学に入っても聞く音楽の傾向や聞きたいタイミングみたいなものは変わらず不安定で、好きなアーティスト、と訊かれると簡単には説明できなくて困った。でも傾向は掴めてきていたのでなんとなくよく見る作家の名前を口にした。外向きにわかりやすく自分の欠片を噛み砕いた結果だった。

そのうち音楽を聴くことじゃなくてイヤホンをつけていることに癖がついた。なにも流していないのにイヤホンをつけてた、ってことが帰ってきてからよく起こった。自室に閉じこもりたくて、でも自室が無くて、とかそんなこと考えるより先にイヤホンを耳にさしていた。

 

でも時々、音楽も含めた全ての音にノらない時がある。お気に入りのプレイリストを再生しても一番を聴き終える前に飛ばす。そういう集中力が散漫な日。作業はあるのにテーマソングが見つからなくて、普段癖づいているせいで「今日はそういう日なんだ」と気づくのにも時間がかかる。

そういう、音を捨てる日。

そういう日は珍しくイヤホンを取るしかない。小さな私を守る自室から出てみる。で、普通ならやらないこと、読まないもの、見ないものに触れる。自分の中に滞った空気が新しいものに揺り動かされて循環し始める。その瞬間に、あ~生きてるんだ、と思う。何もかもうまくいかないと思っていた日に舞い込む新しい種が芽吹く時、急に文字が具体的に浮かんでこうして形ないものを一から始めるエネルギーがわいてくる。

そして、何かが欠けていないと人は動けない、ちょっとの不幸が創作のスパイスになる、ということに気付いてしまう。

 

自分を守って形作るものから這い出て楽しむ『音のない日』は案外悪くない。