Meine Liebling③

今回は私が好きなとあるYouTubeチャンネルについて書いてみる。

…と言いつつ突然説教じみたことを書くことになるのが申し訳ないが、

 

外出自粛が求められている今、私達は試されている気がする。


以前書いたように出不精でダラダラが苦ではない私だが、突如現れた「休暇」に喜んで長期間ダラダラに時間を割いた結果、勝手に深い重い自己嫌悪に陥いってしまうことにようやく気付いて焦り始めている。
試されている気がする、とはどういうことか。

ふとぼーっと過ごしている中で、この自粛期間中自分が自分の「本質」を無意識的か意識的にか自身にも他人にも発信してしまっている、ということに気付いたのだ。書いてみて非常に当たり前のことを書いた気がして恥ずかしいが。

 

ここで私が意味する本質とは、真っ新になってしまった時に自分を取り戻すために何を求めていくのかという、自分の構成要素みたいなものだ。

例えば、自粛中家族や友達に会いたい人はたくさんいるだろう。もし幸か不幸か「恋人」みたいな相手が人生で存在している人達は今まさに苦しみと愛しさが鬩ぎ合う渦の真っ只中にいるだろう。そういう人達は言うまでもない。でも、遠い昔縁が切れてしまった昔の同級生に急に手紙を出したくなったり、ずっと仲良くしていたつもりだった人間に「会いたいね」と連絡をもらった時に不思議と自分はそんな風に思えなかったり、はたまたこの期間中に別れてしまう恋人たちもいるんじゃないだろうか。

時間が傷を癒すように、時間は人を分かつのだと今更気付いて、人間は少しずつアクションを取っていく。

 

例えば、空き時間心行くまでゲームして、実況を見て、映画を見て、読書して、自分がしたいことを突き詰めてみた後、幸せの波にのまれて日常に戻りたくなくなる人もいれば、急に全てに飽きてぼーっと壁紙の色を見つめて「そういえば厳密に言えばこの壁の色は何色なのか」なんてどうでもいいことを考え始めたりする人もいる。それまで全く興味がなかったことに手を出してみる人もいる。義務と時間に縛られていた人生で急に空白ができた時に何を続けるか、何を始めるか。それは時に予想外で、同時にずっと前から知っていたことでもある。

 

前置きが長くなってしまった。今回紹介するのはこちら。

www.youtube.com

個人的な環境の影響で「自己啓発」というジャンルに大いなる嫌悪感を抱いていた私だが、これは中国系アメリカ人の女性起業家が運営する所謂「自己啓発」系チャンネルだ。

英語のチャンネルをあまり見ない人もいるだろうし、今やネタ化したアメリカ人のあの独特のノリに先入観を持つ人も多いだろう。それでもやはり「これを自分のお気に入りとして紹介したい」と思いきれるだけのエネルギーを感じ取れたのでこの記事まるまる使って書いてみる。

 

1.基本情報

・チャンネル名:"Lavendaire"(ラベンダーを意味する"Lavender"をもじったもの)

・運営者:Aileen(アイリーン)

チャンネルと同名の企画の起業家であり、コンテンツクリエーター、そしてartist of life「人生・生活の芸術家」である。

このartist of lifeというのは企画のテーマである

"Life is an Art. Make your masterpiece."

「人生は芸術。自分自身の最高傑作にして。」

から来ている。

自らの大学在籍中、就職活動中に感じたプレッシャー、社会から決められた枠にはめられる違和感をヒントに念願の音楽活動を開始。1stアルバムのリリース、ロサンゼルスとニューヨークでのパフォーマンスを叶える。その後ロサンゼルス最大のアジアンフードフェスティバルの代表者として数多くの番組からのインタビューを受ける。

この経験から、自らが達成した「好きなことをして生きていくこと」の可能性の拡大についてより多くの人々と共有できる方法を探った結果今に至る。
動画作成の他にはpodcastの運営、Lavendaireから発行される「Artist of Lifeワークブック」とスケジュール帳の制作も行っている。

Lavendaireの公式ホームページはこちら

www.lavendaire.com

  ・チャンネルが主に取り扱う内容

人間個人としての成長、ライフスタイルデザインを主に取り扱った、視聴者が理想とする人生を作るための知恵やひらめきを運営者アイリーン自らの経験を元に紹介する。

 

2.洗練されたデザイン

パソコンで上のリンク先に飛んだ人はこの人が提供する、YouTuberらしからぬシンプルで品があるデザインに驚かされるだろう。しかし「商業的」という程厚かましさがない、視覚・聴覚をくすぐる小洒落た動画のBGMや登場する室内のデザイン、提案する商品やその提示の仕方も統一感があり、こだわりが感じられる。サムネイルの雰囲気に誘われて視聴を始めたファンも多いのではないだろうか。

 

3.論理的かつ簡潔でわかりやすい動画

例としてこちらの動画を上げてみる。 

www.youtube.com

「あなたの人生を変える10のシンプルな生活習慣」と題されたこちらの動画。

動画の頭で「何故生活習慣に注目すべきか」という問いに対し「『何を日常的に繰り返すか』がその人を作るから」と答えるように、アイリーンは習慣にまつわる動画をよく投稿する。これはその中でも簡単で達成しやすいものがまとめられたものだ。

実はこちらのコメント欄には既に10項目のタイトルがまとめられている。コメントさえ見れば一分もかからないが、動画自体はイントロ+10の習慣を提示するのに10分の動画であり、すなわち、一項目1分弱の解説がつく。

しかし、アイリーンの解説はムダや苦しい言い訳や理由付けがない。本や実体験に基づき論理的に展開され、テンポよく終わる。解説を聞くことで紹介された習慣の本質、目的を理解することができるのでむしろモチベーションアップに繋がっているように感じる。また、視聴者自ら、自分の生活スタイルと照らし合わせて取捨選択、更に他の動画を見てそこに追加できる。そこがまた沼だったりするが、視聴の際は全編通しての観賞を強くお勧めする。

 

4.英語はネックか

個人的な感想としてアイリーンの英語は教材に使われるような所謂「標準語」的である。というのは、理解しにくいスラングや訛りが少なく、ウケを狙うようなタメもない程よいスピード感なのでとにかく聞きやすい。更に、音声を別撮りしているものが多く、雑音が入らず聞こえにムラもないという点では言語云々以前に音声として聞きやすい。日本語の字幕が無いのが残念だが、語彙は高校受験、大一で受ける授業で使うようなレベルなので英語の字幕を目で追って視聴するとそこまで理解困難なことを言っているわけではないと気づくだろう。時間があれば何度か聞いてみるのも良い。リスニング練習にも使えるし、聞いていて気が散らないのでBGMにもできる。

これもまた個人的な意見だが、日本語ではクサいというか、受け入れきれない名言的言い回しは英語になると急に自然に入ってくる。これは英語のライフスタイル提案動画を視聴する大きなポイントである。日本語では伝わらないニュアンスが詰め込まれたアイリーンの言葉は彼女の母語である英語だからこそ煌めき、彼女の人間性をありのままに表してくれるのだ。

 

5.美しい言葉

読書家で勤勉なアイリーンが動画内に出す言葉は私の視界の中では見つけられない大きなひらめきをたくさんもたらしてくれる。幾つか紹介したい。

 

"All good things take time, it happens when it needs to happen."

私が至る所に書いている言葉、実はLavendaireからの引用である。「人生、山あり谷あり」なんてよくある言葉に突き放されたような気でいた私にこの考え方は目から鱗だった。自分が本当に欲しいものは自分の準備ができてから自ずと起こる、だからそれまで自分がやるべきことをやる。準備ができるまで辛抱強く待つ。そういう段取りを思い出させてくれると同時に他人と自分を比較させる意味を消してくれるのだ。

 

"The wound is where the light enters you."

「光はあなたの傷口から降り注ぐ」

これは厳密にはLavendaireから出た言葉ではなく、アイリーンが過去に体験した心理的トラウマを乗り越えるために読んだ本から抜粋紹介したジャラール・ウッディーン・ルーミーというペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人の名言である。名言や格言というものが残るのは誰も見たことが無い側面から物事を見つめ、端的に人の視界を広げる力があるからだろう、と感じさせてくれる言葉だ。

 

"Action dissolves fear."

「行動は恐怖を消す」

私は常に白黒つける行動が何よりも怖いからずっと怖いのが通り過ぎるのを待っていたけれど、実際生きるには行動しなくてはならない。自分に価値を見出せるように、行きやすくなるようにするには行動しなくてはならない、と背中を押してくれる言葉だ。

 

まとめ・こんな時だから見返したいチャンネル

上記に紹介した内容以外にも企業や就職、自己実現ジャーナリングなど、様々なテーマを扱って定期的に動画が投稿されるLavendaire。時には成功談だけではなく、アイリーン自身の人間的弱さやだらけをありのままに見せてくれることで、かえってなぜこのような行動、発信が求められるかを教えてくれる。海外、特に欧米には日本以上に「ありのままを愛する」というような愛情深さ、多様性を受け入れる強さを一人一人が求められ、それが理想化されているように見えるが、実際人間誰しも自分が自分であることを受け入れられないところから始まるもので、無理な自分らしさや約束事で自分を矯正して安心してしまうだろう。

しかし「自分を少しでも自分として受け入れられるように、自分を変えていく。」という目を背けられない矛盾に向き合って生きていくことで、自分を精神的にも物理的にも更に広げていくことができるのではないだろうか。

 

 

 

 

おまけ・Lavendaireのエクササイズに挑戦

と、いうことで最近投稿されたLavendaireの動画に登場したエクササイズの内容を勝手に訳して書いてみる。

以下から引用・翻訳(意訳)文。

 

www.youtube.com

 

〈自分にとっての「価値」を知るエクササイズ〉

まずは、以下の三点について自分なりに書き出してみよう。

1.自分の人生のテーマを決めるならどんなものにしたいか。何に重きを置きたいのか。
2.自分は何が好きなのか。何が大切なのか。
3.自分が支持しているものは何か。

上記の三点は自らの価値、情熱(やる気)、目的に直結する。

 

続いて、

4.自分にとっての「成功」の定義とは何か。
5.自分にとっての「幸せで満ち足りた人生」とはどんなものか。
6.上記の理想的な人生では私のエネルギー、時間はどんなところに注がれるか。
7.他人の目、自己満足などの誤った理由で何かをしたこと、し続けたことはあるか。
8.どんな心持であることが理想か。
9.今現在そうでないのであれば、いつそのように感じるか。

上記六点の答えは自分の理想や夢を具体化する。

 

理想や夢というものには常に自分の心持、感情が常に結びついており、それを自覚しない、または無視して気が乗らないものを無理矢理人生に取り入れ続けていると結局理想や夢からは遠のいてしまう。最後に楽したい、安心したいからというまだ見えない結末のために今を犠牲にする意味は自分にあるのか、今一度考えてみてほしい。

 

では結論、

今、自分にとって心地よい心持を育むにはどうすればいいか。

 

 

時間がたてば知識も増えてこの答えも変わるだろう。常に自分を振り返る時間を疎かにしなければ未来の自分も大切にできるだろう。

この期間を終えてまた人と向き合うのが楽しみになってきた。

帰国

三月に入ってからすぐの火曜日、同じ日本からの留学生友だちから留学先の大学が休校になったことを知らされた。暢気な私は突然の休みに少し浮かれて、その時一緒にいたタンデムパートナーにニュースについて話した。その人は長期休みになるなら活動自粛を求められるより先にウィーンにいる彼氏がこちらにきてくれたらいいな、なんて言っていた。そのころ日本はすでに不要不急の外出を控えるようにと警告が出されていたので私はゴーストタウン化した地元を想像してゾッとしていた。ここでも不要不急の外出が禁止される前に何ができるだろうかと考えていた。四月頭までの休み、四月入ってもすぐイースター休暇で二週間休みになる。単位のための留学でもなかった私は授業の心配もろくにせず、寮のベッドでダラダラ過ごせることに安心していた。

 

国際センターのメールを読み返して少し青くなったのはその何日か後、感染症危険情報レベルという外務省が出している指標でオーストリアのレベルが「1」に上がった時だった。大学との契約として、滞在先の国のレベルが2になった時は帰国の準備を始めることが求められる。不要不急の外出、特に大人数での外出は禁止され、警察が街を巡回することになった。二月の頭では一週間に何度か見るような頻度だった大使館からのメールはこの頃には毎日のように感染者の増加を知らせてくるようになっていた。ルームメイトは三か月前と同じようにベッドに寝そべってドラマを見てる。寮の住人はほとんどヨーロッパから来た人たちなので、淡々とした文面の裏に確かに存在する焦りと周りのどこか面倒くさそうな雰囲気の狭間、温度差で困惑した。ただ祈るしかなかった。日本の外務省が出している日本目線の指標が上がるかどうかで運命が決まる人がいるなんて、ここでも日本でも、誰も知らないようだった。国全体で早い段階から早めの対応をしているのだからもしかしたらここから感染者は減るかもしれない、と自分を勇気づけていた。

 

レベルが2に引き上げられたのはそこから一週間たつかたたないかという日だった。国境閉鎖を恐れて先に帰国した留学生仲間が「NHKのニュースで聞いたんだけど、オーストリア、レベル上がるって。」とメッセージを送ってきた。頭がぼうっとした。一人で寮のキッチンでご飯を食べていた。昼下がり。窓の外は晴れ。エメラルドの川が見えた。家族と電話した時に暢気に「そこにいた方がいいよ、いさせてもらえないの?」と訊かれるのが辛かった。私もおんなじことを考えているのに、帰らなければならなかったから。私含めて誰も私が帰る意味なんて分かっていないみたいだった。国際センターと何度かメールのやり取りをし、最後まで「日本に来ることはない」と言い張っていた父が直接国際センターと連絡を取り合い、本当に帰国しなければならないということが決まったのだった。突然棚に貼っていた写真を剥がし始めた私にルームメイトが「あんた何やってんの…?」と大声で尋ねてきた。私も何をやってるのかわからなかった。ただいずれにせよ決まってしまった、期限を決められてしまったことに対して本腰入れて何かするのも何もしないのもこの時の私にとっては気持ち悪かった。ルームメイトはその時初めてコロナの影響が身近に迫っていることを知り、静かにショックを受けていた。

 

大急ぎで飛行機の日程を変更し、ウィーンの空港までの電車を予約した。やることリスト、やりたいことリストを書き出して整理しながらそこから四日、五日過ごした。来たときは全て整えるのに何日もかかったのにやろうと思えばこの短期間で全てなかったことにできるのは当たり前のようで不思議だった。思い描いていた帰国の仕方、まだまだこれからも待ち受ける新しい人や町との出会い、在るべきだった自分、一周して気付く自国の新たな側面の発見、そういう全てはもう叶わなくなったのだと諦めてただ動き続けなければならなかった。そしてそれは確実に毎日、毎時間私の心身を侵食していた。日本の対策に関して日に日に愚痴が多くなる父に怒り、かける言葉が見つからなかったであろう友人に苛立ち、無事に決めていた期間を海外で過ごして無事に帰ってきた過去の留学生達を妬み、SNSで楽しそうに平気で外食した様子を投稿する知り合いを恨み、自分の星の巡りの悪さを呪った。日本に関するどんな情報も憎らしく思えた。「ここにいたい」から帰りたくなかったはずが日本という国に帰りたいと思える要素がなくなってきたのを理由に帰りたくないと感じてしまうのが悲しかった。ここにいた人々が家族や友人、自国を想う気持ちが強いことを知っているが故に、自分の中で「日本に帰ること」と「自分のルーツや安心する場所に帰る」ということが上手くイコールで結びつかないことにひどく戸惑った。

私はどこに帰るというのだろうか。

ぼんやりとした憎悪を押し込めて、いつの間にか最後の夜を終えていた。

 

乗る予定の電車が5:12発。私の寮からは身軽な格好で徒歩20分かかるのにもかかわらず、私は4:50に寮を出た。

息を切らして数ヵ月ぶりに全力疾走。
早朝暗がりの中、22kgの大きなスーツケースを必死に押し転がして私は今ではもうすっかり慣れた駅までの道を辿っていた。冷たい空気を乱暴に口で肺に送り続けていたせいで次第に鳩尾の右の方、あばらの角の辺りが強烈に痛み始めた。運動不足な体に不眠を重ねて負荷をかけて全力の移動をしていたのだから当たり前だった。何度かコンクリートの割れ目に躓いてスーツケースを倒した。それでもどうにか水を買う時間込みで間に合って乗客のいない電車に飛び乗った。モーニングコールしたにもかかわらず私からの返答がないことに心配していた家族からは安堵と呆れと怒りが混じったラインが来ていた。電車に揺られてあっという間に三年前は「憧れ」でしかなかったウィーンに到着して息をつく間もなく空港へ直行する。一か月前の比ではない人の少なさに動揺して手続きを済ませ、ゲートをくぐるとシャッターを下ろした免税店が寂しげに建ち並んでいる。搭乗の時間になると数少ない日本人、ざっと数えて十数人、が最終ゲートに集まってきた。帰国に否定的でイライラしていた、なんて言い訳かもしれないが、ここ半年見慣れたヨーロッパの人種と比べた日本人があからさまに辛気臭い顔と縮こまった姿勢をしていてうんざりした。今考えれば自分も同じようなものだったに違いない。この人数なので飛行機内もかつて見ないほどにガラガラ。飛行機内の席に座ると隣二席とも空席だったので横になることもできた。離陸の揺れは内臓が一瞬震えるような心地がするがそれもすぐ慣れてしまう。遠のいていくオーストリアは上から見ると私が知ってるどの側面とも異なったようなよくわからない形をしていた。この国で暮らして何を得られたんだろうか。今まで夜明け前深夜の便ばかりに乗っていたせいで見られなかった窓から見る雲の上の光景は美しかった。雲の上、どこまでも穏やかに青空が広がっていた。なんだか現実味がないその光景を見ながら、私は眠りについた。

「起こるはずだったものへの未練がましい期待とどう足掻いても戻れないという絶望を引きずるよりは絶え間なく変化していく果てしない未来と再び戦ったときに今度こそはましな結果を叩きつけられるように準備するべきなのだ、と気付いた。何がきっかけだったのかは最早よくわからない。」

ずっと朦朧としていた意識の中で自分が書いたらしいメモがスマホに残っていた。相変わらず詩的で笑えた。

 

空港の審査・検査は予想外にあっさりと終わり、公共交通機関を利用することができない私を迎えにくるはずの両親から慌てて家を出たと連絡がきた。がらがらの空港で空いたベンチを探すのは本当に簡単で、そのかどっこに座ると母から電話が来た。一時間半ほど待つことになった私を気遣って話し相手になろうとしてくれたのだと思う。ここ一週間で何度も電話していた母なので慣れたようにスーツケースに腕を預けて帰国までどうだったか、日本は今どんな様子かなんていう「このご時世」な話をしていた。ふと母が「残念だったね」と口にした。「最後までいられたら良かったのにね。」

その瞬間止めようとする間もなく涙がすごい勢いで溢れてきた。電話に戻ろうとしても息が上がってしまい、嗚咽が止まらなかったので無言で切るしかなかった。静かな朝の空港で私は終わりのない時間と共にぼろぼろ泣いていた。気に留める人もいなかったと思う。

 

 

後日、スーツケースに入りきらずに郵送した洋服に久々に袖を通すとあっちで愛用していた洗剤で洗ったはずなのに、知らない香りがした。

半年間が私の中でゆっくりと消えていくのを感じた。

 

久しぶりに開いたパソコンの時計はまだヨーロッパ時間だった。

 

紡ぎ

今更過ぎる話、こちらに来たばかりに通っていた学期前のドイツ語クラスの最終試験だが、もう本当にダメかと思っていたのに見事ギリギリ合格していた。本当に世界はどうかしていると常々思う。

試験ではドイツ語の長文読解、リスニング、語彙と文法の穴埋め、テーマに沿った作文が課題に出された。解きながらはるか昔に何度も解いた高校受験用の英語の過去問のことを思い出した。所謂帰国子女の私にとって塾で出される英語の過去問は本当に鬱陶しいものだった。リスニングでメモを取らなくてもいいと判断して手を動かしていなかったところを講師に運悪く見つかり説教を受けたこともあった。……メモなんかしなくともこんなのできる。そう思って採点した。いつも通り満点だった。講師を見返したような気分にはなったがそれ以降その人とはまともに目を合わせて話ができなくなった。母に言って英語の授業はその年の後半から受けないことになった。

あの頃はあんなに簡単だと思っていた英語、得意で好きな物だと思っていた英語。そこから何年かたって、自分の未熟さを思い知らされている。日本にいることで私の英語に対する構えが気付かぬうちに歪んでいた。私はネイティブのように英語を流暢に話すことはできないし、長文を書くこともできない。気になった洋楽の歌詞の意味を一人で読み解くこともできないし、課題で提供されたもの以外の洋書を読み切ったことも実は今までで一度もない。英語の講義を綺麗に聞き取ることも困難なおかげで、今現在私はすべての授業において気を抜くことができない。

英語に出会ったのは二歳の頃。それでもこの言語はまだ私の中で芽を出し始めたばかりだ。

 

ドイツ語。ミュージカルを通して出会った言語。そのミュージカルをたどってドイツ語を学び始めて、生きたドイツ語が使われる国に渡ってきたことの不思議さ。ふと我に返ると面白いことになったもんだと思う。まだ極められていない言語を抱えながら新しい言語を知ろうとする。

「私の英語が小学生のレベルならドイツ語は幼稚園のレベルだ。」

ここにきてばかりの時に常にこう考えて落ち込んでいた。

 

話し言葉にしろ書き言葉にしろ、他のどんな言語に負けず劣らず日本語は個性が強い。漢字が中国からの輸入品なのは国民の大半が知っていることかもしれないが、輸入の手段をなくした日本人がそれを元に三つも文字の種類を増やすなんて誰も予想していなかっただろう。おかげさまで日本の子供たちは国語に大量の時間を割く羽目になり、その引き換えに実に豊かな表現方法を手に入れたのだけれど。日本語の発音というのはこの大陸特産品らしいけれど未だに詳しくはどこ由来なのか定かじゃないと来た。これが言い訳になるわけじゃない、でも他の言語はそのまた他の言語と歴史的な繋がりが存在してて、その一方で個性的すぎる日本語と「今現在生きている部分」でつながりのある言語というのはそうそうない。それが日本人をとにかく苦しめている。言語と言ったって最初はただの音や記号なんだからその音や記号の形に自分の使っている言語に近いものを全く感じられないのだとしたら学び始めの私達は赤子のようなものだ。その結果、日本での外国語の普及率は先進国最悪と言っても過言ではない。

近年のグローバル化によって子供たちは早くて幼稚園から英語を学び始めるようになり、小学生まで遊びを含めた英会話として、中学生からは本格的な科目として大学まで勉強し続けることになる。英語一本に絞って時間を割いてもなお、一部の帰国子女や勉強熱心な人間を除いて、その教育を直に受けている若者でさえ外国人と満足に意思疎通できるほどの言語力を持っていないのが現状である。最近では成人した会社員でもビジネスで英語力が必要とされるがゆえに英会話教室や英語教本の需要が増えている。しかし多くの人間が一年二年でうまくいくわけもなく、非常に長い間苦しんでほんの少し使えるようになるぐらいである。

ドイツ語の授業で多言語というテーマで作文を書こうとしたところから始まったこの文章だが、日本は多言語を語れるほど他の言語は受け入れられておらず、国際言語の英語で手一杯である。一部の外国語大学を別として、一般的な大学では少ないながらドイツ語、フランス語学科を見るぐらいで、ドイツ語を専攻している私でも一年目は親戚を含む周りの人達に「そんな使えない言語を」と馬鹿にされた。

それでも幼稚園の頃アメリカに住んでいた経験から、幼い頃より英語を学び続けていた私は、異なる言語を学ぶことはその言語が話されている国の文化や価値観等、翻訳しきれない情報を知ることに繋がると知っているからこそ言語学をおろそかにしてはいけないと思っている。こんな大口を叩いておきながら、私は今現在英語とドイツ語のみしか勉強していない。それでもこの留学を通して、新しくできた大切な友人が話すイタリア語やチェコ語、文法が日本語と酷似しており人工的言語という個性を持つ韓国語等、様々な言語に興味を持つことができた。その他にも数えきれないほどの言語がこの世界に存在する。そしてこれらを学ぶことは決して無駄なんかじゃない。

同時に知った虚しさ。母語を含めて、どんな言語も極めきることなどできない。言語はそれが口にされる限り永遠に完結することのない形も制限もない文化だ。でも言語学習は完結させることがゴールなのか。そもそも完結なんてあってないようなものだ。ガンジーだって永遠を生きると思って勉強しなさい、と言っている。この世にはここまでできたらおしまい、なんて簡単なものはない、だからこそ知る意味があって、そんなことでへこたれている場合じゃないのだ、とモチベーションを失いそうになる自分や他の人に思いを飛ばしてみる。

 

高校の時、尊敬していた先輩と哲学的なことを話す会を短い間だったが不定期で開いていた。その会の名前がとても好きだ。

「言葉を『紡ぐ』会」

愚直なネーミングなのに繊細な言葉選び。こんなに複雑なくせに、日本語ってなんて美しいんだろう、と思わせてくれる名前だった。そういう美しさを知るために私はもう少し、あともう少し、と言語を学んでいくのだ。

巡り巡った日々

一ヵ月前。2月12日。今年もまた私の誕生日が来た。

 

今年、私は二度誕生日が来た。日本時間と現地時間、そのどちらでも誰かしらが私を覚えていてくれて、私にメッセージを送ってくれたのだ。ここで時差が影響してくるとは思わなかった。

 

笑ってしまう話だが、日本でいたとき、誕生日は私にとって嬉しいのに同時にむなしくて苦しい日だった。変な例えだけれど、まるで知られぬように必死にもがく夢を見ながら目を覚まして現実に上目遣いで媚びるようなことを続けていた気がする。ずっと人からの想いに飢えていた。どんなことをされていても自分の中では何かが欠けていて、祝ってもらってるくせに義務感で祝われているような、相手の自己満足で祝われているような、そういう懐疑心でがんじがらめになって不満で満ちていた。何度も重ねた「ありがとう」は裏を返せば「お腹すいた」。誕生日を楽しみにしていてもその期待値を何も越えてくれない、みたいな飢餓状態。何度も言うが、祝ってもらいながら、全くもって失礼な話なのである。

その原因にようやく触れられた気がする今年である。
こっちで驚いたのは、留学生たちが皆自分の誕生日パーティーを自分で企画していたことである。日本では誕生日をどう祝うのかきかれて、友人か恋人、家族でこじんまりとした食事をするのが普通、と答えると皆揃いも揃って「信じられない、この民族…」という顔をするので笑ってしまうのだが、それで思い出した。
アメリカで生活していた時、子供たちは親と話し合って誕生日に何をするかを企画していたじゃないか。
色とりどりのプレゼント、クラスメイト総出の誕生日会、ジムナスティック好きなあの子はスポーツジムを借りてトランポリン。動物が好きな子は動物園の一角でふれあい型のパーティー。一人一人のクッキーを創作できるクッキーづくり体験、自分が選んだ毛色のクマのぬいぐるみにはそっとキスを添えて小さなハート形の心臓を自ら入れてやった。そして誕生日の子は勿論メインなのだけれど、招待された友人は必ず手土産を携えて、「あぁ、楽しかった」というあたたかい気持ちを抱きながらおうちに帰ったんだっけ。

私はこちらでできた友人全員に大急ぎで連絡をとった。私の誕生日会のテーマを『日本文化』に定めた。何人かは助っ人として当日早い時間に来てもらい、半年前にようやく自炊を始めた自分でも作ることのできるレベルで海外の人の口に合う、美味しいもの。そう考えてお好み焼きと太巻を作ることにした。半年で仲良くなった何人かの中には料理上手な人もいて、プレゼントとして私の大好物を添えてくれた。参加者が言い慣れない料理名を大切そうに口にして「美味しい」と笑ってくれた。
そして、そうそう、手土産。パーティーの終盤、漢字一文字とその意味の意訳を書いたカードをメンバーにプレゼントした。それぞれに送る漢字には意味があった。私からみたその人の強い印象、そして私が羨ましい、自分に欠けている、と思っているその人の強み、として漢字一文字。それを皆の前でゆっくり解説して、心を込めて渡した。

皆あまり親しみのない文字と、突如自分に向けられた言葉に戸惑ったようだったが、全員に渡し切った後、ふと一人が「あんたのは?」といたずらっぽく笑った。そこから全員が示し合わせたかのように笑みを浮かべる。もちろん参加者向けのものだったのでそんなもの用意していなかったのだが、あれよあれよとあまりのカードにメッセージと「メンバーから見た私」が記されていった。

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「ソラ」勿論裏にもあるのだけれど、表のシンボルを。

一日が終わった後、私はそれまでの誕生日で感じたことがなかったにもかかわらず、ごく自然に祝福されているような気持ちになっていた。

誕生日はもちろん自分のためのもの。それと同時に、自分にかかわってくれた全ての人に向けるもの。その延長線上に「祝福」みたいなものがあるのだとしたら。

自分にも他人にも心を注ぎきれなかった日々にようやく終わりが見えてきたのかもしれない。

漠然とした多幸的平凡

最近遂に書き残したいと思う瞬間がなくなってきた。突き詰めて言うと、改めて書き残す必要があると思う事柄が減ってしまったのかもしれない。

非日常がいつの間にか日常になり、日常だったものが非日常に変わる。それがこの六か月で起こった変化であり、これから夏にかけて起こる変化でもある。さみしさを感じつつも後ろ向きではない。

 

折角なのでこの半年あったことを振り返って書いてみようか、手紙のように。

 

見知らぬ場所に異常な恐怖と心細さを抱きがちな自分にとっては、旅行半分で入寮の手伝いとして共に渡航した母と電車で離れてから、この留学は始まったようなものだった。漠然とした不安によって零れ出た涙は母にもうつり、心のどこかで「泣いたら負け」みたいな片意地を張って生きてきた私達母子にとってこの別れは大変屈辱的かつ、世に言う家族愛の典型をようやく経験できた成功例のような一大イベントだった。

段々大人になるにつれて気付いたが、成長するにしたがって涙を流す回数は減る一方なのに、それに反比例するように泣くのに必要なエネルギーは増えていくばかりなのだ。駅のホームの白い壁に嗚咽が止まらない体を押さえつけて落ち着け、落ち着けと繰り返した。自分が下した選択で自分が望んだ場所に来れていることは幸せなはずだったのに、当たり前に一人ぼっちになった瞬間心は力いっぱい抵抗を始めたのだ。かなしい、さびしい、そういう言葉では言い表せない深い暗い冷たい孤独。周りにはたくさんの人がいるのに、寮に帰れば日本語が話せる寮母さん、部屋に帰ればルームメイトがいるのに、自分はもうとうとう一人になってしまったのだと思うと目が腫れるぐらいに泣いてしまったのだ。

部屋に帰る頃には大分心の整理もつき、不思議な覚悟と重い心臓の鼓動を感じるだけになっていたが、ルームメイトは私を見るなり、「長い一日だったんだね。」と静かに口にした。今思えば、まだろくに話せてもいない相手であったにもかかわらず、彼女なりに優しい言葉をかけてくれていたのだ。

クリスマス休暇にルームメイトの自宅にお邪魔する際、大荷物で駅を歩きながらふと「駅のホームに立つと、はじめてここに来た時のことを思い出すの。」と口にした。晴れた夏のある日、日差しで白く透き通ったように見えた駅構内を思い浮かべていた。すると意外にも「私も全くおんなじ。三年も前なのに今でも初めてここを歩いた日を思い出すよ。」という答えが返ってきた。その声のトーンから、それが彼女にとっても少なからず憂鬱な記憶であることを感じ取れた。

 

私は愛国心、郷土愛、愛校心、部面愛…みたいな、自分の出身を誇る文化があまり得意ではなかった。何かに忠誠を捧げているみたいで、それに加えて忠誠を捧げることで安心を買ってるみたいで、なんだか口にしても言わされている感がぬぐえなかった。
そんな懐疑心旺盛な私が、今いるザルツブルクという街に対しては「好き」と迷わず感じられることは、実はとても珍しいことなのでは、と気付いた。
脱線に脱線を重ねて言うと、ザルツブルクの街が好きな理由の一つに街で生まれるどんな音でも余計な音と思える音がないという点がある。
別に街に音を揃えるための法があるだとか、何か大きな基準があるだとかそういうことはない。路上ではもちろんバス内、大学構内でも好きなタイミングで好きな言語で人々は電話する。道端にはアコーディオン、トランペット、ギター、様々な種類の楽器が音楽を奏でている。夕方の広場で手回しオルゴールを回すおじさんは一昔前の金曜ロードショーのオープニングみたいだ。一方で、車が通ってないわけじゃないのにエンジン・クラクション・ブレーキの音はあまり聞こえない。バスは電気で静かに路上を滑り、時々キュルキュルと独特な音を立てて路線変更する。
日本では聞くことができない音が聞こえて、聞こえるはずの音は聞こえない。
それだけでなんだか現実離れしたような、時間の流れを感じさせない何かがここにはある。


ザルツブルクの風景が私は好きだ。
遠くにぼんやり見える要塞。城。岸壁に沿って建てられた淡い色の家。等間隔に植えられた街路樹。大きいものから小さいものまで、歴史を刻んでなお色褪せない魅力を持った教会。幅のあるエメラルドグリーンの両端を繋ぐために何本もかけられた橋。石畳。海街の物語みたいに白い鳥が川の上空を舞う白く晴れた日。
何周しても新しい発見がある。
こっちでは共同のスペースといえども、自分の部屋の風景を作ることができるのも嬉しい。
IKEAで揃えたちょっぴり歪んで味が出ている食器。偶然が重なって何か月も窓辺で風に揺れているチューリップ。自分が誰で、どこから来たのか、ちゃんと忘れないように貼った写真。はがきやリストを目に見える位置に飾るのも好きだ。ここで作った自分の領域で、私は静かに意識を取り戻していく。

 

いつか見た占いで読んだ最後の二文。
「女だけど、武士は食わねど高楊枝、を地で行くタイプ。」
「いつも無駄に何かと戦ってる感はある。」
なんか運命的テーマを読まれてしまったようでギョッとした。
そういえば強くなりたいと何故かずっと思ってきた。でも強くなるのはすごく難しい。
そうやって欠けたような気持ちになるとき、誰かが好きでいてくれたら強くなれるもんなのかな。とかなんとか思った。でもやっぱり強い女は恋愛に依存しないものなのかもしれない、とも思う。

幸せって持ってるもので測れないというか、月並みな言葉だけど「心の持ちよう」なのかもしれないと思ったのは、こだわる部分以外でたやすく人の幸せを願える自分に気付いたから。人の幸せを心から願える人って実は一番幸せなのでは。

 

こっちにきてわかったこと。

ただ普通に生きてるだけで私たち皆大なり小なり呪いを身に受けて歩いている。

自分を縛る呪いにはなかなか気づけない。何が呪いになるかわからない。どうやってそれがとけるのかもわからない。だけど私達はその呪いでできた尺で世界を測っている。

それは、大体小さな気付きから始まる。

私は正直すぎて人を傷つけてしまう。私は人より太っている。私は英語ができない。私は面白いことが言えない。私は猫かぶりなので人と心の深いところから付き合えない。私はこういう時何もしなくてよい。私はこういう時何かをしなければならない。

黙れ。走れ。息を止めろ。叫べ。泣くな。笑え。

自分の中で無意識に唱えていた情報はいつか私達の言動に影響を及ぼし始め、私達の人格はそうやって形成されていく。そうして私たち一人一人の中に異なる形の「当たり前」ができていく。

 

で、何と言えばよいのやら。

私の中のその枠組みをガシガシと揺さぶられてほろりと目が覚める瞬間がこの滞在期間中に何度もあったのだ。

当たり前だと思って口にしたことが実は自分にかけられた呪いを含んでおり、目を丸くされたり怪訝な顔をされることがあった。

違いすぎる空間に放り出されて歩いていると呪いが篩にかけられるようだ。常識だと思っていた投げかけに「それだからなんなのだ」と根本を疑う問いかけがなされた瞬間、私は過去に飛ぶ。

 

「そういえば、なんで私こうしてたんだっけ。」

 

その瞬間、視界の明度が少し上がったような不思議な感覚に包まれる。記憶の中を歩き回っていると実は傷ついていた過去の自分にろくに頭もなでてやらずに放置していたことに気付いたりする。ごめん、知らんぷりしてて。ありがと、成仏してください、って手を合わせる。その作業の中で見つけるのは必ずしも暗いものだけではなくて、帰ってくる頃には篩にかけられた呪いは消えて、代わりにマイルール、なんてものが可愛くちょこんと座ってたりする。それが真のアイデンティティーというものなのかな、と今では考えている。

How to survive in the Party+α

ついこの間、留学生の学期末のお別れパーティーが開催された。こっちのパーティーとは、日本の飲み会お茶会とは程遠く、例えるなら、映画『渇き。』に出てくる加奈子のクラブのシーンみたいな、人々が半ば現実から逃れるように飲んで叫んで踊り狂うのが普通に目の前で繰り広げられる凄まじくパワフルでイかれたものだ。どこからどう見ても私らしさの欠片もない催しなので避けていたが、今回縁あって参加することになった。

この世に意味のない経験は存在しない、とは本当のことだったようで、『パーティー』に潜入したことでまた幾つか、この世の謎が明らかになってしまったのでその模様をここに記録しておこうと思う。

 

1.アジア人はアルコールに弱い→〇

欧米の人間、特に北から来ている人たちと、アジア人である私は明らかに体の構造が違った。アルコール摂取の仕方が水。500年の歴史があるメーカーのアルコール42%のウォッカをショットで何杯も飲む。ビールもガンガン並行して飲む。私にも勧めてくる。飲んだ。勧められるがままにビール0.25ℓ、ショット二杯半飲んでからお手洗いで鏡を見たら、ビーチで全く日焼け対策をせずに直射日光浴び続けた後みたいなとてつもない赤さになっていて非常に恥ずかしかった。輪に帰ってきてからの周りの人達の白さにビビった。

その代わりというと変だが、二日酔いという概念はこっちにもある。「二日酔い」、英語では"Hang over"と言う。一見平気そうにしていた友人が数日アルコールにやられていたのも見たので、こっちにもアルコールに弱い人々はいる。多かれ少なかれアルコーンに影響を受ける人は世界各国に存在する。ただその場で顔に出ない人が多いだけのようだ。

 

2.私はアルコールに弱い→△

日本で友人間で飲んでいた時は自分のことを『飲めない人間』だと思っていた。どんな種類のお酒でも三杯程で心臓が爆破するんじゃないかと思うぐらいに動悸が激しくなる。顔が真っ赤になる。ほろ酔いのフェーズを通り越して具合が悪くなってくるのはざらで、ほろよい状態を楽しめる友人を羨ましいと思っていたし、胃と眼球がぶよぶよと歪み始めるのも辛かった。

そんな私が今回はというと、一時は顔が赤くなった。しかし、私は思ったより酒に弱いわけではないのでは?というかアルコーンにある程度慣れてきたのか?という今までとの違いが見えてきた。というのは、上記の飲み会が実は”0次会”にすぎず、完全な空腹状態でその後の真のパーティーで瓶ビールを二杯飲んでも”生きていた”し、ちゃんと無事に帰って無事に寝て、二日酔いも起こさずに朝自然と起きられたためである。

 

3.パーティーで一番痛いことはへたくそなダンス→×

ここをちょっと勘違いしていたのだが、基本的にパーティー空間ではなにをやってもイェー!!!!みたいに歓迎される。正直明度の低さとアルコールによる全体的な正気度の低下により、多少下手なダンスでも本人が楽しんでいれば変に見えない。お世話になってるスロバキア美人の姉御も、普段ははつらつとしているかつ品よく何でもそつなくこなす系お姉さんだが、パーティーでは狂ったような民族舞踊みたいな足取り、ダンスで周りをガンガン巻き込んで空間を楽しんでいて、そのキャラの変わりようは圧巻でしかなかった。

しかしながら、パーティーで死ぬほど浮いてしまう行動が一つだけある。

壁際で所在なさげに目を泳がせ、「私は慣れていません、ごめんなさい。」的オーラを出すこと。

これは地獄。他から見ても辛いし、何よりも自分が辛い。そしてここが私にとっては、大きな課題だった。

 

4.パーティーでは皆プロみたいにテクニカルダンスを披露する→△

地獄から抜け出すために、まず私は周囲に目を走らせた。前述したように、皆が皆ダンスが上手いというわけではない。しかし欧米・中東の血なのか、何をしていてもなんだかキマっているように見える。私は動揺していたが、皆思い思いの動きをしている中で確かに存在する、これを気を付ければどうにかなる、という物理ポイントを発見した。

それがこちら。

 

①足を肩幅かそれより半歩分大きく開く

②膝を緩ませる

→足が固いと棒立ちに見えるしリズムを受け取りにくくなる

③髪がなびくように頭を振る。

→正気なのがバレてはいけない。一番柔らかくするのを忘れるのが頭である。髪の毛が揺れているとそれだけでノリの良さに加えて女らしさが出るので得。男性は肩と首の付近、筋を柔らかく使うと良さそう。

④肘と手をできるだけ上の方に位置させる。最低でも脇を締めないこと。

→浮かないように、と体を縮めていると精神的にいつまでも冷静なままで、地獄から抜け出せない。姿勢的に開放的になると抵抗がなくなり、結果的に楽になる。

⑤会場の大音量の音楽が体内に響いて心地よく感じるレベルまで友人と飲む。

→アルコール×体内にまで響いてくる大音量の音楽で一種のトランス状態になるため、ビートで体が勝手に動きやすくなる。

 

要は、飲んで理性を飛ばしてビートを受け入れるか、飲まずに一時間地獄耐久レースをするかの醜い戦いに過ぎないのである。しかしそんな中でも空間を楽しめることがある、というのが実際経験してみて一番の発見だった。

 

5.酔っぱらうと突然絡み始める奴らが出てくる→◎

盛り上がってくると男女が突然おっぱじめようとするので厄介である。

「おい待て、そんなディープなキスをするんじゃないよ!!👏」

「そこのカップル、首にむしゃぶりつくんじゃないよ!!👏」

と心中つっこみながらパーティーを抜け、連れの元に帰るとその頬にこっちが恥ずかしくなるぐらいにでかでかと真っピンクのキスマークがあって正直かなり引いた。こっちは日本より性にオープンで、それが意外と良い風に作用することもあるし、このようにギョッとさせられることもあるのだ。

更に、アルコールは生真面目な皮を剥がすのにも役立つらしい。堅物な自分でも酔っぱらってみると体に入ってくる音楽に合わせて手足が自然と動き始めるもんで、「人間は生物学的に元々音楽に合わせて踊るのが好きなのかもしれない」とぼんやり思った。

 

6.口付けには深い意味がある。→△

これもまたCultural Difference的話。帰りがけ、せっかく出不精な私を連れ出してくれたので連れに一声かけてから帰ろうとした。挨拶として男女間でもハグキス文化があるこの国なので、頬のキスはまあ理解できたが、そいつが口にも軽くしてきたのでこちらとしてはびっくり仰天。酔いもさめて一人夜道を歩きながら友人に「キスされたんだが!?」と電話口に叫んだので深夜二時の海外の夜道に恐怖心を抱く心の余裕など一切なかった。更に翌日、エフィーに「これ普通なんだよね?」と恐る恐る訊くと怪訝な顔と共に「少なくともオーストリアでは異常やで」と返された上に当の本人は二日酔いで一日中寝込んでいたため、その日一日一人で「キスは愛情表現?挨拶?なんだ?」と考えこみ、単語テスト対策そっちのけで集中力散漫であった。恋愛慣れしていない女の典型例である。

そして翌々日。朝すっかり二日酔いから回復した様子のそいつをキッチンで見かけたので、率直に「この前のアレはそっちの国では普通なのか?」と問いただしたところ、へら~っと笑って「普通だよ!…あ、不愉快だったらごめんね!」と素直に謝られたので”No problem!”と張り付けた笑顔で返した。単語テストは多分大丈夫だった。

バカな話だがWikipediaで調べたところ、一部の国、例えばロシア人など東スラブ系の人々や、フィンランド人など北方のフィン・ウゴル系の人々の間では口づけが普通な場合があるらしい。ちなみにそいつはチェコ人だった。

 その後、様々な国の人々に「そっちの国では口づけも挨拶として普通なのか」と聞きまわったが、今のところ「普通」とシンプルに返されたことはない。同じヨーロッパでも細かに文化の違いがあるというのは単純に面白いと思った。

 

最後に、

パーティーに参加するのは良い経験だった。でももう行かないと思う!

 

~Special Thanks~

衣装、鞄貸し出し者:エフィー

Meine Liebling②

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

新年早々シリーズものなのもあれかと思ったが、昨年までで出会ったものを紹介しておこうと思い。

今回の『お気に入り』は色んな所で出会った言葉にする。

人間がツールとして使いすぎて消耗品のようになった言葉。それでも時折何気なく入ったお店のとある棚の前で足を止めてしまうように、どうしても心が奪われる言葉に出会うことがある。

普段素敵な言葉に出会うと誰に言うわけでもなくこっそりメモするでけにとどめるのだが、今回は私がいろんな理由で心が奪われた言葉をここに記録しようと思う。

 

「神様へ 紫色とオレンジ色って合わないとずっと思っていたけれど、火曜日に見た夕日を見てから考えが変わりました。あれはよかったです」

らばQというサイトに載っていた一言。
これはとある欧米の学校の国語の授業で先生が「神様にお手紙を書きましょう」という課題を出した結果、その中の一人が書いたお手紙のようだ。 子供たちの文章力を養うのに手紙や物語をよく書かせたりするが、キリスト教系列の学校が多い欧米では、このように神様に書かせることもあるそうで。
しかし私が初めて読んだとき浮かんだのは子供の姿ではなく、同じ日々の繰り返しに魂を抜かれてぼうっとした男性の姿だった。夕焼けの色だけが彼の中で本当の色彩を持つ。そういう瞬間は誰にでもあるものなんじゃないだろうか。私が言葉に求めるのもそういう瞬間なのかもしれない。

 

プレゼントが嬉しいのは、会っていない時に自分を意識してくれたことが嬉しいのだ

私のメモには「ネタフルから」としか書いておらず、ネタフルとは何なのか、出典はどこなのか、わからずじまいだ。でもこの文章を見た時、妙に腑に落ちたというか、うまく言語化されなかった気持ちの答えをヒョイと提示されたような気がしてくすぐったくなった。誕生日もクリスマスも、この歳になっても楽しみにしてしまうのはどこかで誰かが私のことを考えててくれる瞬間が訪れるからだ。その瞬間を感じられるプレゼントが来るととてつもなく嬉しいし、そうでないものが来るとすぐにわかってしまうものだ。だから誰かの特別な日は出来るだけその人のことをたくさん考えて、その人と過ごした時間を持つ自分の直感を信用して、贈り物を届けたい。

 

自分の世界が二つに割れて、割れた世界がてんでに働きだすと苦しい矛盾が起こる。多くの小説はこの矛盾を得意に描く。

from. 夏目漱石

誰もが羨むような幸せに満ちた人には、きっと最初の一行さえも書き出せないと思う。

from. 小説を書きたくなるコピー

信じられないぐらい自分の生活が上手くいかないときにこの言葉を思い浮かべる。怠け者なので肉体的疲労は少ないが、常に頭の中は色んなことが忙しく巡ってしまうので心が軽率に折れてしまいそうになる。けれど、矛盾を抱えることは自分と似た矛盾を知った時にそれを理解して幸せになる時間が後に用意されているということだ。矛盾を抱く自分でなければ何も発信できない。矛盾があるから私は文を書くのが好きでいられるのかもしれない。苦しみは苦しみに留まるものじゃない。苦しみは後の幸せの約束だと思わせてくれる言葉なのだ。

 

君と別れて帰って来たら 帰り道、涙が出るほど淋しかったので 僕は、君をすきなんだろう、と 初めて思った

form. 北川悦吏子

これをメモしたころはただドラマみたいな描写にドキドキしてメモしたのだった気がする。普段全然泣かない私が、こんな現実離れした状況に立たされることなんかもっと後の話だろうと思っていたのだが、何年か前に非常に尊敬していた友人と別れた後、30分以上ある最寄りへの終電の中で涙が止まらなかったことがあったので、まぁ、本当にそういうことがあるんだなぁと驚いたものだ。

 

自分の人生に予定をたてた覚えはないのだが、予定外だ、と思うことはしばしばあって、可笑しいと思う

from. 江國香織

Twitterで流行っていた#美しいと思う小説の一行目、というタグでこの文に出会ったが、これまたその通りで笑ってしまう。予想外だ、と驚ける純粋さと同時に、予想外なことばっかりな人生を楽しむ、苦しむ余裕のある人間でいたい。

 

 同じ場所にとどまるためには全力で走らなければならない

from. 『鏡の国のアリス」』赤の女王

あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである

from. マハトマ・ガンジー

努力する人間に向けた「意識高い系」という言葉が苦手だ。

誰かが走り続けて得たものを馬鹿にする言葉みたいで聞いた後ぼぅっとしてしまう。

「意識高い系」という言葉をぶつけることで自分を棚の上に上げている気がしてしまうのだ。

「意識高い人たち」は意識を高くしようとして生きているんじゃないのだろうに、と思う。じゃあどうして「意識高く」いられるのか。その答えが上の二つの文章にある。自分の意志で走り続けなくてはいけない。周りがどんなに馬鹿にしようとも、自分の中で貫き通したい何かがあるならば惑わされている暇などないのだ。

 

外見は中身の一番外側

from. 詠み人しらず

「品っていうのはね、隠れた部分の完璧さ」
「愛嬌っていうのはね、遊び心」
「色気っていうのはね、色気っていうのは、教養なのよ」
from. ecotam

思考に気をつけなさいそれはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさいそれはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさいそれはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさいそれはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさいそれはいつか運命になるから。
from. マザー・テレサ

どうせ第一印象は外見。でも、外には知られるはずのない食生活や思考、選ぶ言葉は続けるうちになんとなく外側に現れる。逆に、どう身なりを整えるか、どういう姿勢仕種でいるかを選ぶことで外見を中身に滲ませることもできるのかもしれない。自分という人間を作るのはまず自分なんだと教えてくれるこの文が好きだ。

 

「他人のSNSを見て苛立つ時は自分の精神の不調を断じて認めたくない時だった」
「ちょっと行き詰まった時はケーキ、あるいはステーキを食べる、もしくは前髪を切る、部屋を掃除する等々簡易な解決法を幾つか持っておくべきだった」

人は長所によって好かれ、欠点によって愛される。

どちらもF氏のエッセイ『真夜中乙女戦争』からの引用だ。実はこの本を実際に読んだことはない。しかしF氏の時折投稿されるツイートに、完全に共感するとまではいかなくとも、何かひっかかるものを感じていたので宣伝としてこの二つの文を目にした時は思わず書き留めていた。生きにくさを本気で嘆くような、それでいて仕方ないよね、と笑うような、強烈な人間臭さがあり、それでもやっぱりどこかキラキラした破片を見出してしまう文章なのだ。

 

Schreiben ist küssen, nur ohne Lippen. Schreiben ist küssen mit dem Kopf.

ドイツ語の課題図書 "Gut gegen Nordwind"からの一節。「書くことは口付けることのない口付けだ。書くことは頭で行う口付けだ。」みたいな私の雑すぎる訳を通してもこの文章の響きの美しさは伝わるんじゃないかと思う。

実は昔から読書が大好きだった私は、小学校の卒業式で「小説家になりたい」とスピーチを行った。その後で子供用の職業紹介ウェブサイトを見た時、「小説家という職業は、言ってしまえば、誰にでもなれるものだ。『なりたい職業』として設定するのには向いていない。」みたいなことが書かれていて幼いながら馬鹿にされたような気がして腹を立てた覚えがある。

でも今考えればその通りなのだ。書くことさえあれば、書き続けられるならば誰にでもなれる。逆に言えば、何かを書き連ねられる程に強固で自らの人生に刺さる経験、思考、夢、希望も欲望もないならばいつまでたっても、何も書くことができない。

向ける相手が大衆でも、たった一人でも、文章を書くことは読む者の柔い部分に触れる:口付けること。言い得て妙、なのかもしれない。

 

今年も、これからも、私を震えさせる沢山の言葉に出会えますように。