Meine Liebling②

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

新年早々シリーズものなのもあれかと思ったが、昨年までで出会ったものを紹介しておこうと思い。

今回の『お気に入り』は色んな所で出会った言葉にする。

人間がツールとして使いすぎて消耗品のようになった言葉。それでも時折何気なく入ったお店のとある棚の前で足を止めてしまうように、どうしても心が奪われる言葉に出会うことがある。

普段素敵な言葉に出会うと誰に言うわけでもなくこっそりメモするでけにとどめるのだが、今回は私がいろんな理由で心が奪われた言葉をここに記録しようと思う。

 

「神様へ 紫色とオレンジ色って合わないとずっと思っていたけれど、火曜日に見た夕日を見てから考えが変わりました。あれはよかったです」

らばQというサイトに載っていた一言。
これはとある欧米の学校の国語の授業で先生が「神様にお手紙を書きましょう」という課題を出した結果、その中の一人が書いたお手紙のようだ。 子供たちの文章力を養うのに手紙や物語をよく書かせたりするが、キリスト教系列の学校が多い欧米では、このように神様に書かせることもあるそうで。
しかし私が初めて読んだとき浮かんだのは子供の姿ではなく、同じ日々の繰り返しに魂を抜かれてぼうっとした男性の姿だった。夕焼けの色だけが彼の中で本当の色彩を持つ。そういう瞬間は誰にでもあるものなんじゃないだろうか。私が言葉に求めるのもそういう瞬間なのかもしれない。

 

プレゼントが嬉しいのは、会っていない時に自分を意識してくれたことが嬉しいのだ

私のメモには「ネタフルから」としか書いておらず、ネタフルとは何なのか、出典はどこなのか、わからずじまいだ。でもこの文章を見た時、妙に腑に落ちたというか、うまく言語化されなかった気持ちの答えをヒョイと提示されたような気がしてくすぐったくなった。誕生日もクリスマスも、この歳になっても楽しみにしてしまうのはどこかで誰かが私のことを考えててくれる瞬間が訪れるからだ。その瞬間を感じられるプレゼントが来るととてつもなく嬉しいし、そうでないものが来るとすぐにわかってしまうものだ。だから誰かの特別な日は出来るだけその人のことをたくさん考えて、その人と過ごした時間を持つ自分の直感を信用して、贈り物を届けたい。

 

自分の世界が二つに割れて、割れた世界がてんでに働きだすと苦しい矛盾が起こる。多くの小説はこの矛盾を得意に描く。

from. 夏目漱石

誰もが羨むような幸せに満ちた人には、きっと最初の一行さえも書き出せないと思う。

from. 小説を書きたくなるコピー

信じられないぐらい自分の生活が上手くいかないときにこの言葉を思い浮かべる。怠け者なので肉体的疲労は少ないが、常に頭の中は色んなことが忙しく巡ってしまうので心が軽率に折れてしまいそうになる。けれど、矛盾を抱えることは自分と似た矛盾を知った時にそれを理解して幸せになる時間が後に用意されているということだ。矛盾を抱く自分でなければ何も発信できない。矛盾があるから私は文を書くのが好きでいられるのかもしれない。苦しみは苦しみに留まるものじゃない。苦しみは後の幸せの約束だと思わせてくれる言葉なのだ。

 

君と別れて帰って来たら 帰り道、涙が出るほど淋しかったので 僕は、君をすきなんだろう、と 初めて思った

form. 北川悦吏子

これをメモしたころはただドラマみたいな描写にドキドキしてメモしたのだった気がする。普段全然泣かない私が、こんな現実離れした状況に立たされることなんかもっと後の話だろうと思っていたのだが、何年か前に非常に尊敬していた友人と別れた後、30分以上ある最寄りへの終電の中で涙が止まらなかったことがあったので、まぁ、本当にそういうことがあるんだなぁと驚いたものだ。

 

自分の人生に予定をたてた覚えはないのだが、予定外だ、と思うことはしばしばあって、可笑しいと思う

from. 江國香織

Twitterで流行っていた#美しいと思う小説の一行目、というタグでこの文に出会ったが、これまたその通りで笑ってしまう。予想外だ、と驚ける純粋さと同時に、予想外なことばっかりな人生を楽しむ、苦しむ余裕のある人間でいたい。

 

 同じ場所にとどまるためには全力で走らなければならない

from. 『鏡の国のアリス」』赤の女王

あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである

from. マハトマ・ガンジー

努力する人間に向けた「意識高い系」という言葉が苦手だ。

誰かが走り続けて得たものを馬鹿にする言葉みたいで聞いた後ぼぅっとしてしまう。

「意識高い系」という言葉をぶつけることで自分を棚の上に上げている気がしてしまうのだ。

「意識高い人たち」は意識を高くしようとして生きているんじゃないのだろうに、と思う。じゃあどうして「意識高く」いられるのか。その答えが上の二つの文章にある。自分の意志で走り続けなくてはいけない。周りがどんなに馬鹿にしようとも、自分の中で貫き通したい何かがあるならば惑わされている暇などないのだ。

 

外見は中身の一番外側

from. 詠み人しらず

「品っていうのはね、隠れた部分の完璧さ」
「愛嬌っていうのはね、遊び心」
「色気っていうのはね、色気っていうのは、教養なのよ」
from. ecotam

思考に気をつけなさいそれはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさいそれはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさいそれはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさいそれはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさいそれはいつか運命になるから。
from. マザー・テレサ

どうせ第一印象は外見。でも、外には知られるはずのない食生活や思考、選ぶ言葉は続けるうちになんとなく外側に現れる。逆に、どう身なりを整えるか、どういう姿勢仕種でいるかを選ぶことで外見を中身に滲ませることもできるのかもしれない。自分という人間を作るのはまず自分なんだと教えてくれるこの文が好きだ。

 

「他人のSNSを見て苛立つ時は自分の精神の不調を断じて認めたくない時だった」
「ちょっと行き詰まった時はケーキ、あるいはステーキを食べる、もしくは前髪を切る、部屋を掃除する等々簡易な解決法を幾つか持っておくべきだった」

人は長所によって好かれ、欠点によって愛される。

どちらもF氏のエッセイ『真夜中乙女戦争』からの引用だ。実はこの本を実際に読んだことはない。しかしF氏の時折投稿されるツイートに、完全に共感するとまではいかなくとも、何かひっかかるものを感じていたので宣伝としてこの二つの文を目にした時は思わず書き留めていた。生きにくさを本気で嘆くような、それでいて仕方ないよね、と笑うような、強烈な人間臭さがあり、それでもやっぱりどこかキラキラした破片を見出してしまう文章なのだ。

 

Schreiben ist küssen, nur ohne Lippen. Schreiben ist küssen mit dem Kopf.

ドイツ語の課題図書 "Gut gegen Nordwind"からの一節。「書くことは口付けることのない口付けだ。書くことは頭で行う口付けだ。」みたいな私の雑すぎる訳を通してもこの文章の響きの美しさは伝わるんじゃないかと思う。

実は昔から読書が大好きだった私は、小学校の卒業式で「小説家になりたい」とスピーチを行った。その後で子供用の職業紹介ウェブサイトを見た時、「小説家という職業は、言ってしまえば、誰にでもなれるものだ。『なりたい職業』として設定するのには向いていない。」みたいなことが書かれていて幼いながら馬鹿にされたような気がして腹を立てた覚えがある。

でも今考えればその通りなのだ。書くことさえあれば、書き続けられるならば誰にでもなれる。逆に言えば、何かを書き連ねられる程に強固で自らの人生に刺さる経験、思考、夢、希望も欲望もないならばいつまでたっても、何も書くことができない。

向ける相手が大衆でも、たった一人でも、文章を書くことは読む者の柔い部分に触れる:口付けること。言い得て妙、なのかもしれない。

 

今年も、これからも、私を震えさせる沢山の言葉に出会えますように。